昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

「自分はそんなに多くの女を相手にしていたんですね」“昭和のドンファン”福田蘭童結婚詐欺事件とは

父は天才画家、息子はクレイジー・キャッツ…福田蘭童結婚詐欺事件 #1

2020/10/11

genre : ライフ, 歴史, 社会

父母の愛を知らずに育つ

「色魔」「女たらし」「昭和のドンファン」と呼ばれた福田蘭童は、「海の幸」「わだつみのいろこの宮」で知られる夭折の天才洋画家・青木繁と、同じく画家だった福田たねの間に生まれた。

青木繁が福田たねをモデルに描いた「女性の顔」(松永伍一「青木繁 その愛と放浪」より)

 青木は幼い蘭童を「幸彦像」という油絵に描いている。青木とたねは2人が上京中に知り合い、恋に落ちたが、正式に結婚せず、蘭童が生まれたのは茨城県内の青木の知人宅だった。蘭童が3歳の時、青木は放浪の旅に出て、6歳の時、生まれ故郷の九州で病没。たねもやがて会社員の男性と結婚。別の家庭をつくる。

青木繁が幼い蘭童を描いた「幸彦像」と蘭堂を抱いた青木繁(松永伍一「青木繁 その愛と放浪」より)

 成人してからまた接触するようになるが、蘭童は栃木県のたねの実家で、戸籍上は母の弟として、父母の愛をほとんど知らずに育った。

 偶然のきっかけから尺八に触れ、上京して琴古流の師匠に弟子入り。音楽学校ではピアノやフルートも学び、西洋音楽の技法を取り入れた、これまでにない尺八の奏法を発明。「尺八の鬼才」と呼ばれるように。尺八の奏者や師匠、作曲家として広く名前が知られるようになっていた。

 私生活は放埓で、この結婚詐欺事件が表面化する前から複数の女性との関係が問題になり、新聞ネタにもなっていた。その際、そのうちの1人と結婚。結婚詐欺事件当時も正式にはまだ妻帯者だった。

「ずば抜けた美貌」「どことなく陰のある」哀愁型美人

 川崎弘子については「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集女優編」が詳しい。1912年、川崎市大師町(当時)生まれ。本名は「石渡シヅ子(通称・静子)」となっているが、資料や新聞記事によっては「シヅ」「シズ子」ともある。家は和菓子屋だったが、父が他の事業に手を出して失敗。病死したため、高等小学校を卒業すると、すぐ働きに出なければならなかった。

「キネマ旬報」1932年1月11号の表紙を飾った川崎弘子

 映画評論家・南部僑一郎の「川崎弘子は結婚する!」(「話」1934年2月号)によると、川崎大師の裏にあった料理屋の女中になったが、「かわいい子がいる」と評判になり、聞きつけた松竹蒲田撮影所がスカウトに乗り出して、彼女の母親の知り合いだった俳優が勧誘したという。

 1929年、撮影所入り。まだ16歳だった。芸名は出生地と弘法大師にちなんで付けられた。城戸四郎所長を筆頭とする撮影所の「秘蔵っ子」として育てられ、徐々にトップ女優へ。1932年には「昭和の35大事件」で取り上げた「天国に結ぶ恋」の映画化作品でヒロイン役を演じた。

川崎弘子と福田蘭童。1933年ごろか(「話」1935年7月号より)

「ずば抜けた美貌であったが、それだけでなく、少女時代、逆境に育ったせいか、どことなく陰があり、栗島すみ子などの流れをくむ、いわゆる哀愁型美人に属し、元来この手の美人には弱い日本の観客には打ってつけという天性の武器にも恵まれていた」(「日本映画俳優全集女優編」)

 それが1933年に蘭童と急速に接近。同年10月ごろには双方の母親が認めた「許婚者」として人目もはばからぬ仲になっていた。「このころは、花形女優を別名“永遠の処女”などと呼び、結婚はまさしくタブー。しかも、川崎が松竹の看板女優だったから穏やかではない。とりわけ福田は、松竹時代劇の名花とうたわれた飯塚敏子との仲もうわさされ」ていたと同書は書いている。

この記事の写真(10枚)

+全表示

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー