そもそも鬼というのは、基本的にみな元・人間。鬼舞辻によって第二の生を与えられており、最初から別の生き物というわけではない。
そのため、炭治郎は倒した鬼の手を握って「神様 どうかこの人が今度生まれてくる時は 鬼になんてなりませんように」と弔い、「鬼は人間だったんだから 俺と同じ人間だったんだから」という発言を行う。
「罪を憎んで人を憎まず」というか、自分の家族を殺され、運命を捻じ曲げられてもなお、憎悪の感情を抱かないという性格は、極めて異例だ。
TVアニメで元・十二鬼月の響凱と戦った際には、彼が大切にしている原稿を避けながら戦うという“優しさ”を見せるなど、戦闘時においても炭治郎は相手を尊重する姿勢をやめない。ここまで徹底した公平性を持つ主人公は、なかなかいないのではないだろうか。
同時に、超が付くほどの真面目で純真な性格で、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』では、マウンティングをとってくる伊之助に対して「ありがとう!」と素直に返すなど、怒ることがほぼない。
いい人&生真面目過ぎて忖度ができず、ときに会話が成立しないことや、目上の人に食って掛かることも(そんなときにフォローするのが、善逸の役目)。
また、『鬼滅の刃』の特徴でもあるが、モノローグ(心の声)が多く、炭治郎が「痛い痛い痛い!」と弱音を吐くシーンも頻出する。
こうした“弱さ”を見せることは、少年漫画においては一種の禁じ手ともいえるが、本作では果敢にそれを行うことで、読む者・観る者の情感に訴えかける。
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』でも、そのようなアプローチが効果的にされており、十二鬼月の一員・魘夢の術にハマった炭治郎が夢を見て、その中で家族に会うシーンでは、彼の苦しみがエモーショナルに演出されている。
夢の中では家族は鬼に殺されておらず、禰󠄀豆子も鬼になっていない。炭治郎は戦う必要がなく、平穏な日常がずっと続いていく。だが炭治郎は涙を流しながら家族に別れを告げ、「家族はみな殺された」という現実を受け入れて夢の世界から脱出するのだ。