さらに、魘夢によって「家族から罵倒される夢を見る」という精神攻撃をかけられた際も、何度も術を打ち破り、「俺の家族がそんなことを言うわけがないだろ!」と吠える。
もともとの目標が剣士になることではないため、死ぬことへの恐怖、戦うことへの不安を常に抱えながらも、強い精神力でそれを克服していく姿は、全く新しい主人公像を確立したといっていい。
『鬼滅の刃』の切なさを掻き立てるもうひとつの特徴
キャラクターを分析していくだけでも、十二分に語りがいがある『鬼滅の刃』。これまでに紹介してきた味方のキャラクターたちはみな壮絶な過去を抱えており、そのことが本作のドラマ面を奥深いものにしているが、注目したいのは鬼たちにも、それぞれに人間時代の過去や、信念があるということ。
先ほど述べたように、鬼たちには人間だったときがあり、響凱であれば世に認められなかった文筆家、累であれば病弱な少年(自分が鬼となったことで、家族を殺してしまった過去を持つ。だからこそ疑似家族を形成しようとする姿が痛々しい)といった人としての時代があった。
アニメ化前のため詳しくは言及しないが、飢えや差別、迫害によって鬼になる道を選んだ者もいる。
彼らの「人だったころの話」がフラッシュバックとして、炭治郎たちに敗れた際に描かれるという演出も、『鬼滅の刃』の切なさを掻き立てる特徴。
散っていく瞬間の走馬灯として蘇るため、もうどうすることもできず、悲劇的だ。さっきまで主人公を苦しめていた敵が、負けた際に同情を引くようなキャラクターへと変貌を遂げる――これもまた、本作の“異能”といえよう。
『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で煉獄さんと死闘を繰り広げる猗窩座は、強者への敬意と、確固たる信念を持つキャラクターとして描かれた。
こういったポジションは少年漫画の華であるが、煉獄さんの常人離れした使命感に圧倒され、取り乱していく様子からは、戦闘力に見合わぬ“弱さ”をも感じさせ、人間くさい味付けがなされている。これもまた、『鬼滅の刃』ならではといえるのではないか。