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2020/11/12

B5判用紙300ページにも及ぶ手記

 07年3月から何度も手紙を出し続けたが、最初は中国語と日本語で書いた手紙にまったく反応しなかった。それが、3度目の手紙の後の07年のゴールデンウィーク明けの、とある日、突然、私の名をボールペンで書いた1通の封書が届けられた。「今時、宛名がPC印字でない手紙とは珍しい。誰だろう」と思いつつ裏の差出人名を見ると「鈴木詩織」の4文字。私は封を開けるのももどかしく、中身を引き出す。折りたたまれた1枚の便箋。開くと、そこには、まだ稚拙さの残る日本文字で“お会いしてもいいです”という簡素な文面が綴られていた。

 そして冒頭の面会シーンに至ったのだ。

 しかし面会が可能になり、彼女が好きなインスタントコーヒーを差し入れたり、彼女の自由になる預金を家族に送金してあげる程度の関係になっても、私を「スクープが欲しいだけのドブ鼠(記者)」としか見ていないと感じさせる時がしばしばあった。無言ながら不信の色一杯の視線を何度も投げつけてきたからだ。

 それでも疑念の薄皮を少しずつ剝ぐように信頼関係は築かれていたようで、詩織が「私が、なんでこんな事件を起こしてしまったのか、日本の人にも中国の家族や友人にも知ってもらいたい」といい、B5判用紙300ページにも及ぶ手記を私に託したのは、面会がすでに30回を越えた頃だった。

©iStock.com

 彼女はそれを獄中で半年間かけて書いたという。来日前に夢見ていた日本へのあこがれや、豊かな暮らし、それが現実の前でもろくも崩壊し、ついに暴走、最悪の事態に至る過程が、生々しく描写されていた。とはいえ、それは詩織の願う真実であり、牽強付会や誇張がないとはいえない。だが事件の様相や核心にわずかでも近づける貴重な手記である事も間違いなかった。

「詩織の犯罪」は多民族国家時代を迎える日本における必然なのか?

 核心にどこまで迫れるのかわからない。詩織との面会前からの事件取材、公判などを含めると、すでに4年の月日が流れていた。だが、私は彼女の手記を基に、絡まった糸を1本1本ほぐす作業に没頭しはじめたのだ。

(文中、彼女の手記は〈 〉内で記す。ただし原文を損ねない範囲で文意を分かりやすく意訳している部分もある)

中国人「毒婦」の告白

田村 建雄

文藝春秋

2011年4月20日 発売

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