「今度ついてきたら脳ミソ潰したるからな!」
18時くらいだろうか、1階にある大浴場に入ると先客が2人いた。中年太りをしたおじさんと背中に刺青が入った痩せ気味のおじさんだった。
せっかくなので何か話しかけてみようと、刺青のおじさんの横に座る。長期で住んでいるのならお互いに顔見知りにもなり会話でも生まれそうなものだが、風呂の中では終始無言。さて、何を話し掛けようか。「もうここは長いんですか?」あたりが無難ではあるが面白みに欠ける。かといって競馬やパチンコはやらないタチなのでギャンブルの話をしても会話が続かないだろう。
西成における世間話の8割は競馬で、残りの2割はパチンコと競艇。路上で寝ているおじさんに競馬新聞の1つでもプレゼントすれば2人はもうお友達という街なのである。
「英作ゴルラアアァ! 何度言ったら分かるんじゃボケェ、今度ついてきたら脳ミソ潰したるからな!」
刺青のおじさんが突然私の隣で暴れ始めた。頭のネジが外れていないと出せないような大声を張り上げている。目線からすると英作はちょうど私の背後にいるようだ。さっきまでヒゲを剃っていた刺青のおじさんの手にはしっかりとカミソリが握られている。もう1人のおじさんは後ろを振り返ることもなく目をつぶって頭を洗っている。いつものことで慣れているのかそれとも相手を刺激しないようにやり過ごそうとしているのかは定かではないが、何も反応しないというのも見ていて異常である。
“これはヤバイ!”
本能的に身の危険を感じ、私は脱衣所へ避難した。尻の割れ目に泡がまだ付いたままだ。風呂の中ではまだおじさんが見えない英作と戦っている。その様子を見る限りでは英作は一定の距離を取りつつ、おじさんの周りをグルグルと回っているようだった。
風呂上がりに外を散歩していると、福祉専門ドヤ「ママリンゴ」の前を、イヤホンを付けて虚ろな目をした男が、「あ、あ、あ」と呟きながら歩いているのが見えた。歩幅は5センチくらい。その場でひたすら足踏みをしているようにも見える。何があったのかは知らないが、とりあえずおかしくなってしまったのだろう。そのような人間が他にもその辺をうろついている。そう、私は西成に来てしまったのだ。
※本書は著者の体験を記したルポルタージュ作品ですが、プライバシー保護の観点から人名・施設名などの一部を仮名にしてあります。