少なくとも人がバンバン死んでいるという噂のA建設はなしだ。自分はこの前大学を卒業したばかりで、ヤクザ上がりでもムショ上がりでもなんでもない。とはいえどの会社も人道外れた悪徳業者に見えてきた。L興業、M開発、N組などなど……。どれもヤクザを連想させるような文字の響きだ。結局どこへ行っても運が悪ければ怪我をしてダムに放り込まれるのだろうか。どこの会社がどうという問題ではなく、このあいりんセンター自体が地獄への窓口になっているということか。
ならばその地獄とやらに思い切って行ってみようではないか。自分なんて死んでも悲しむのはせいぜい数人で、その悲しみすら季節が変われば風化してしまうだろう。私はそんなにたいそうな人間などではない。次に声をかけてきた会社にホイホイ付いて行ってしまえばいい。
「この若い兄ちゃんが寮に入りたい言うとるで」
するとS建設という会社の掲示が目に入った。よく分からないがこの会社だけ「健康保険」の欄に丸が付いている。ほかはどの会社も健康保険の欄が空欄で、なんだか不安だったのだ。しかも部屋は完全個室で所在地は西成区ときた。和歌山県の聞いたこともないような町にある海沿いの飯場など行きたくない。山奥の空き地に建つプレハブ小屋、断崖絶壁の海岸といった不安を煽る風景ばかりが浮かんでくる。よし、S建設に行こう。もう私にはS建設しかない。
するとタイヤの小さい20インチの自転車に乗った老人がフラフラと近づいてきた。肩には小さいポーチをかけ、ハンチング帽をかぶっている。いつか見た、池袋のポルノ映画館で上映していたヘンリー塚本作品に、同じような男が出ていたような気がする。
「兄ちゃん、仕事あるよ」
私はもう行く気満々の顔になっていたのだろう。男は必要最低限のことだけを私に伝えた。他の業者が口にするような「部屋が綺麗だ」とか「楽な仕事が多い」とか、逆に怪しさを醸し出してしまうようなアピールがない。なにをいってもこいつは仕事に行くと男も悟ったのだろう。私はムショ上がりの行き場のない若者の、選択肢がないゆえの迷いのない顔と同じ表情をしていたのだ。
「S建設に行きたいのですが」
「おおS建設ならまだ枠が空いとるで! 車のところまで連れて行ってやるわ。おーい、S建設さん! この若い兄ちゃんが寮に入りたい言うとるで」
あいりんセンターの端に停まっている白い乗用車の前にはS建設の社員と思われる男が2人いた。私は車には疎いため車種は分からなかったが、もしボディが白でなく黒だったら一発でヤクザと分かるような車である。2人の男は角刈りで建築現場にいそうなガテン系であったが、休日は家族とアウトレットにでも行っていそうな人の良さそうなおじさんである。