あえて感情移入ができないように描かれている
そこで重要になるのが「究極的な悪」を象徴するキャラクター、無惨様の造形になる。実は「ラスボス、最後の敵をどんな存在として描くか」というのは、その漫画家の世界観や人生観が出る、ものすごく重要なポイントである。
(過去の名作のネタバレをするが)永井豪の名作『デビルマン』はそのクライマックスで「人間こそが悪魔的ではないのか」というテーマに直面する。石ノ森章太郎『サイボーグ009 天使編』において、009たちは究極の存在である「神」に近い存在との戦いに向き合い、『天使編』は未完で中断のまま終わる。究極的な悪役、あるいは最強最後の敵を描くことは、裏返しに作家の理想、正義を描くことでもあるのだ。
『鬼滅の刃』における鬼舞辻無惨様の描き方は、炭治郎たちの思想的対立存在であり、また悲しみを背負った上弦下弦の鬼たちとも違う絶対悪として描かれている。ここで重要なのが、「無惨様はあえて感情移入をさせない、人気が出ないように描かれている」点である。
無惨様の姿が目まぐるしく変わる理由
まず第一に、無惨様は登場するたびに姿が違う。ある時にはダンディな紳士、ある時は和装の女性、ある時は紅顔の美少年の姿に変化して現れる。
マンガのキャラクターは一般的に髪型をあまり変えない。現実の人間は毎月散髪するし髪型も変えるものだが、漫画のキャラクターは髪型で識別されるため、コロコロと髪型を変えると読者の印象が変わり感情移入しにくくなってしまうのだ。(主人公・桜木花道が物語の転機でリーゼントからロッドマン的赤坊主になる『スラムダンク』はそれを逆に利用してギアチェンジに成功したと言える)。
無惨様の場合、髪型どころか年齢・性別までが登場するたびに変わる。これは読者に無惨様への人間的なシンパシーを抱かせず、「鬼舞辻無惨とは暴力の象徴であり概念である」ことを強く印象付ける表現として成功していると思う。