起訴された案件だけで7人が死亡している「北九州監禁連続殺人事件」。
もっとも凶悪な事件はなぜ起きたのか。新証言、新資料も含めて、発生当時から取材してきたノンフィクションライターが大きな“謎”を描く(連載第35回)。
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公判内に松永弁護団によって述べられた松永の経歴
松永太の経歴は、2003年9月3日の第6回公判で、松永弁護団が行った冒頭陳述で詳らかにされている。
その内容については、検察側の甲号証(犯罪事実に関する証拠で被告人の供述調書等を除いたもの)に基づいたものが多くを占めるが、前回で紹介した〈出生から中学時代まで〉では、私自身が現地で取材した内容との乖離が見られた。これから取り上げる松永の経歴に関しても、あくまでも公判内で松永弁護団によってこのように述べられた、というものであることをお断りしておく。以下はその陳述内容である。
〈2 高校時代
(1)M高等学校時代(本文実名、以下同)
ア 被告人松永は、高校入学後も、とにかく弁が立ちよくしゃべる生徒であったが、粗暴な面はほとんど見られなかった。指導要録によれば、1年時に指導性がAでその他はB評価であり、人望もあり、2年時には、生徒会の風紀委員長選挙に立候補して、当選を果たしている。
イ 被告人松永は、目立ちたがり屋なところがあり、ある日、授業中にいきなり席を立って教室の隅で胡坐をかき包装紙を広げて切り分ける作業を始めたところ、これに気づいた教師が「何してるか。」と注意したのに対し、「ノートを忘れたからノートを作りよる。ノートがないと困るやろ。」と言い返したことがあった(検甲483号証3ページ)〉
松永とM高校で同級生だったDさんは、当時行った取材で次のように語っている。
「いわゆる不良で、学校中から嫌われていました。途中で転校しましたが、在学中には刃物をげた箱に隠し持ったりするなど問題が多くて、本当かどうかはわかりませんが、『人を刺したことがある』と悪ぶってました」
かつて松永の在学中にM高校で教えていた教諭もまた、いい印象は抱いていなかったと話す。
「松永のことはよく憶えています。大口を叩くタイプで、いきがるところがあり、あまりいい生徒ではありませんでした。『生徒会役員をすれば留年しないから』と、生徒会長選挙に立候補しましたが、票はまったく取れませんでした。その後、家出した女子中学生を自宅にかくまっていたと警察から連絡が入り、職員会議で退学処分が決まったんです」
そのことについて、当時の福岡県警担当記者は付け加える。
「松永が退学になったのは、家出した女子中学生とのことだけでなく、じつは前にも何度か不純異性交遊などでの停学処分を受けていて、それらが重なったことで、ついには厳しい処分が下されたというのが真相です」