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連載昭和事件史

「不良教師と不良マダムのエロ行状記」ダンス教師と美女たちの「愛欲」の先には何が待っていたのか

――「有閑マダム」「ジゴロ」「乱倫」…戦前最後のあだ花「ダンスホール事件」 #2

2020/11/22
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 2人の生き方の違いは決定的だった。「子どもの養育を女中に任せて、徳子はダンスホール、芝居、キネマ館へと頻繁に外出するようになる。徳子は瞳の美しい美貌の持ち主であったから、社交界に出入りする男らの注目が集まり、いつしか男のうわさが立ち始める」(同書)。

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 一時同居に戻ったがうまくいかなかった。木俣修「吉井勇 人と文学」はこう描写している。「閑寂な林間の生活は彼にとっては捨て難いものがあったが、ダンスホールのジャズの音色に魅せられている妻には到底辛抱ができず、別居して自分だけ東京に住みたいと夫に申し出た。既に妻の不行状を知り、憤懣(ふんまん)の心を抑えていた吉井はそれを許し、自分も漂いの旅に出たいと思い、一子滋を妹長田花子に預け、長い流離の旅に上った」。徳子は手芸と婦人記者の仕事で自立を目指した。そんな時に事件は起きた。

連鎖した華族一家の醜聞

 柳原義光の腹違いの妹が柳原燁子(白蓮)。徳子の伯母に当たる。炭鉱王との2度目の結婚に大きな不満を抱き、東京帝大生(当時)と恋に落ちて、夫に絶縁状を突き付けて家を出たのは1921年のことだった。白蓮は徳子のことを報じた1933年11月18日付東朝に「伯母白蓮夫人が 見る吉井伯夫人」の見出しで取材に答えている。

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「姪がこのような問題を起こし、皆さまにご迷惑をおかけしたことは、伯母として恥じ入る次第です」「(姪は)前にはしばしばダンスホールに行ったものですが、親類でやかましく言って行かないようにさせたのです。今度のダンスホール事件は1年以前の古傷だろうと思います」「(ダンスホールで)知り合った方とお茶を一緒に飲みに行くというようなこともありましょうが、それは私交上のことで、大連事件のような犯罪が起これば別ですが、警視庁としては少しやりすぎではないかと思います。しかし、姪の悪いことは重々で、私の口から弁護致しません」「かわいそうとは思いますが、とく子がやり玉にあげられたことによって世間が廓清されるならば、いくらか慰められるところがあります」

「大連事件」とは「昭和事件史」で取り上げた大連の「児玉博士邸事件」のこと。ダンスホール事件の2カ月前に報じられた「乱倫」博士夫人の記憶が鮮明だったことがわかる。

 一方で、コメント自体は驚くほどおとなしい。実は、白蓮の兄で徳子の父である柳原義光も、同性愛の相手との手切れ金をめぐって脅迫を受け、警察に届けたことから、ダンスホール事件直前の1933年9月、新聞報道されるスキャンダルを起こしていた。華族一家3人の醜聞の連鎖。

 結局、同年12月、華族を所管する宮内省宗秩寮は徳子を華族礼遇停止に、勇には訓戒処分を下す。義光は不問だった。それに先立つ11月、勇と徳子の離婚が決まっていた。

 徳子は雑誌「話」1936年11月号掲載の「夫婦喧嘩」というエッセーで、里見弴から「たまには亭主にやきもちを焼いてごらん」と言われたことを紹介。「里見氏の忠告を素直に聞き入れなかったのが、今日のこの不幸の原因を作ったのかもしれない」と後悔の弁を述べている。