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連載昭和事件史

「不良教師と不良マダムのエロ行状記」ダンス教師と美女たちの「愛欲」の先には何が待っていたのか

――「有閑マダム」「ジゴロ」「乱倫」…戦前最後のあだ花「ダンスホール事件」 #2

2020/11/22

 そのうえで「いまのところ、方針を変えるに至っていない」と(4)の方針を維持すると表明している。この点について「社交ダンスと日本人」は「ダンスホールは『社交ダンス』という異文化が家庭生活などの局面に侵入していくのを水際で食い止めるための『方便』であった」と結論づけている。 

 相次ぐ摘発に戦々恐々となった各ダンスホールは慌てて「不良教師」を解雇。制服学生の立ち入りお断りを決めたほか、ダンス教師の組合も対応を協議したが、捜査の動きは止まらない。

「ただれた恋の華をまきちらす」

 11月16日付東朝朝刊は「不良教師の斡旋役 某伯爵の夫人 けふ(きょう)警視廳(庁)へ召喚」と報道。「取調べにより新たに発覚した一群の有閑マダムの醜状が白日下にさらけ出されたが、その一人である伯爵夫人のごときは、その著名な社会的存在を誇り顔にダンスホールに入り浸り、同夫人が多数の婦人たちを不良教師らに取り持った事実なども明らかになった」とした。

 その伯爵夫人は「17日午後1時半、ついにその行き先を突き止められ、警視庁の不良少年係刑事が夫人を同行。取調べを行っている」と11月18日付(17日発行)東朝夕刊で「踊る伯爵夫人 遂に召喚さる」の見出しで報じられた。同じ18日付夕刊で実名報道したのは徳富蘇峰が主宰した国民新聞だった。見出しは「愛慾(欲)に躍る惡(悪)の華 吉井伯夫人連行さる」。

伯爵夫人の実名と写真が初めて登場した(国民新聞)

「某伯爵夫人として疑問符を投げかけ、注目されていた有閑マダム、吉井勇伯爵夫人・徳子(34)は17日午前11時、住居先から警視庁に連行。浦川第一捜査課長の手で厳重なる取り調べが開始された。徳子夫人は先に吉井伯と同棲生活の清算と称して別居し、依然各ホールに出入りしてはその著名な社会的存在を誇りちらして有閑マダムの本領を発揮し、伯爵夫人トクコの名をうたわれ、その交際価値を利用して恋をあさる有閑婦人たちを不良教師に接近させてはホールにただれた恋の華をまきちらしていたものである」

 品がないというか、先入観丸出しの書き方だが、当時の事件記事とはこんなものだったのだろうか。添えられた写真は和服で少女のように幼い面影を残している。読者は「こんな女性が」と思ったのかもしれない。事件は11月18日付朝刊で急展開する。

「エロ」から「賭博」へ

「文壇人に恐慌來(来)! ダンスホール事件急轉(転) 妾宅で賭博中の 里見弴氏等を檢擧(検挙) 吉井伯夫人の取調で 遊び仲間の裏面暴露」(東朝)、「有閑社會(会)の裏面 “筆の名士”多數(数)拘引」(東日)、「エロ行状摘發(発)から賭博暴露」(都)……。「有閑階級へのメス愈(いよい)よ急」が見出しの読売の書き出しはこうだ。

「不良ダンス教師と不良有閑マダムのエロ行状記に徹底的なメスを振るっている警視庁不良少年係では17日午後、歌人吉井勇伯爵夫人・徳子(34)を召喚。厳重取調べ中、はしなくも同夫人の口から、既成文壇人並びに同夫人連をめぐって常に麻雀、花札などの大賭博が開帳されている事実が暴露した。この陳述にがぜん緊張した警視庁では、直ちに刑事を八方にはせ、同日午後6時までに左の著名14氏を疾風迅雷的に各所から引致。厳重取調べを開始した」