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 検挙され一晩留置された作家らは翌11月18日、菊池寛が身元引き受け人となって釈放された。

 実はこの事件は「昭和事件史」で取り上げた「福田蘭童の結婚詐欺」とつながっている。この後も麻雀賭博の捜査を続けた警視庁は翌1934年3月の一斉手入れで国会議員や実業家、医師、画家、作家らを検挙。その中に尺八作曲家・福田蘭童もいたが、複数回にわたる摘発で、今度は菊池寛も検挙されてしまう。

結局、立件されたのは…

 11月19日付東朝朝刊は社説で「ダンス問題と文士の賭博」を取り上げた。ダンスホールとそこに集まる人々の心情にある程度の理解を示しつつ、こうしめくくっている。

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「今や世界をあげてあらゆる方面に一大転換の気運は急迫しつつあり、国民一般の緊張の切実に要望せられるとき、今回の警視庁当局の行った摘発がいかなる意図に出でたものであるにせよ、これを自覚の契機として、家庭生活なり夫婦生活なり、ないし社会観、文芸観なりに多少の向上的変改がもたらされるならば、彼らの払った不幸な犠牲はあえて大に過ぎたと言われないであろう」

 回りくどいが、柳原白蓮の感想に通じるニュアンスがある。要するに、新聞まで加わって大騒ぎして摘発するほどの悪行ではないが、いまの状況でお上のやることには逆らえない、ということだろう。

客と踊るダンサーたち(人形町「ユニオン」ダンスホール)=「大東京寫眞帖」より

 結局、ダンスホール事件でも賭博事件でも、本件の容疑で立件された者は一人もいない。

 内務省や警視庁などが「非常時」「時局」という名目の下、スケープゴートとして華族や文化人、芸能人をやり玉に挙げ、新聞がそれをあおった疑いが濃い。小田部雄次「華族」は宮内省宗秩寮の処分も、当時の木戸幸一宗秩寮総裁(のち内大臣など)らが進めていた華族制度改革に利用した可能性を指摘。「(吉井)徳子の事件は華族粛正の世論づくりに利用された感が強い」と書いている。

ダンスホール“弾圧”の結末

 その後もダンスホールへの“弾圧”とそれを何とかくぐり抜けての営業が続いた。しかし、警視庁などからの風当たりは強く、1936年7月、「不良ダンス教師」やダンサー、バンドマンらが絡んだ「第2次桃色事件」が発生。11月に東京のダンスホール8カ所全部を5日~10日間の営業停止処分に。

 その後、いったんは活況を取り戻したが、日中全面戦争が始まった1937年7月には女性の入場が禁止された。そして同年12月、ついに決定が。