「支那の長期抵抗に備えるため、上下一致官民一体を強調する内務省では、国内から浮ついた風潮を一掃すべく、連日警保局会議を開いて『風俗警察』強化の方策を練っているが、まず明年9月以後、全国のダンスホールを閉鎖するというのが第一の方針であるようだ」(12月29日付東日朝刊)。
「『いき』の構造」で知られる哲学者・九鬼周造にはこのころに書いたと思われる「ダンスホール禁止について」(「九鬼周造全集第五巻」所収)という未発表のエッセーがある。「今日の非常時に国内の浮ついた風潮を一掃するという内務省の方針には無論賛成であるが、そのためには、ダンスホールに関しては、営業時間を短縮するとか、または営業日数に制限を加えるとかいうことで十分ではあるまいか」と述べ、「私の見るところでは、ダンスホールには閉鎖を行うべきほどの非国民的のところはない」と断言。「ダンスホールは禁圧すべき性質のものではなく、監督・善導すべき性質のものである」と主張している。
ラストステップ、そして戦争へ
だが、既に流れは決まっていた。閉鎖の時期は延期されたが、とうとう1940年10月いっぱいで閉鎖が決まった。既に国民が娯楽を味わうことを許さない時代に入っていた。戦後再開されるまでには5年近くの歳月がかかった。11月1日東朝朝刊は「今宵限りのステツ(ッ)プ」の見出しで次のように報じた。
「31日夜を最後に、ダンスホールもついに“時局の街”から姿を消した―。閉鎖猶予期限もいよいよ大詰めのこの夜、各ホールは名残りのステップを求めて詰め掛けた人たちでなんと大入り満員。平日の3倍から5倍という人出が芋の子をもむようにホールいっぱいを埋めて押し合いへし合い。破れ返るような騒ぎに『満員御礼』と入り口に張り出し、終幕2時間前からお客を汗だくで断るホールも出現する。
かくて午後10時、幾度もアンコールされる『蛍の光』を最後のはなむけに、ダンスホールは12カ年踏み続けてきたステップの幕を降ろした」
【参考文献】
▽高橋桂一「新社交ダンスと全国舞踏場教授所ダンサー案内」 高瀬書房 1933年
▽永井良和「社交ダンスと日本人」 晶文社 1991年
▽斎藤茂太「回想の父茂吉 母輝子」 中央公論社 1993年
▽斎藤由香「猛女とよばれた淑女」 新潮社 2008年
▽柴生田稔「続斎藤茂吉伝」 新潮社 1981年
▽「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」 毎日新聞社 1980年
▽川西政明「新・日本文壇史第二巻 大正の作家たち」 岩波書店 2010年
▽重田忠保「風俗警察の理論と実際」 南郊社 1934年
▽千田稔「明治・大正・昭和華族事件録」 新潮文庫 2005年
▽木俣修「吉井勇 人と文学」 明治書院 1965年
▽小田部雄次「華族」 中公新書 2006年
▽藤岡武雄「斎藤茂吉探検あれこれ41」(「歌壇」2016年11月号所収)
▽九鬼周造「ダンスホール禁止について」(「九鬼周造全集第五巻」1981年所収)