「騒動」の本質と背景
一連の騒動は、「検察人事の政治からの独立」と「検察に対する民主的チェック」のバランスをどう取るか、という重い課題を浮上させた。
戦後制定された検察庁法は、個別の事件について捜査現場に対する法相の指揮権を認めず、検事の定年を明記するなど人事権の行使に一定の制約を加え、検察の独立に配慮しているが、制度上、検察幹部の任命は内閣(政治家)の専権事項となっている。
政治の側は、その人事権や一般的な指揮・監督権を背景に、政界事件が起きると、捜査にあれこれ注文をつけ、あるいは首脳の交代期には人事に口を挟もうとしてきた。
そうした中、政治腐敗を許さない国民の意を体した報道機関や野党は、それらの動きを厳しく監視。法務省は世論を背景に、法務・検察幹部の人事で波風が立たないよう周到な根回しをし、時の政権も概ね、法務・検察の人事については謙抑的な姿勢を貫いてきた。
検察は国民の信頼を基盤として成り立つ組織だ。この「国民の信頼」がキーワードとなる。国民の強い信頼があれば、法務・検察は、政治の側が人事などで無理難題を言ってきても、拒絶することができる。逆に、信頼が希薄になると、強く出られなくなる。
大蔵省は国民の信頼を失った
敗戦後から昭和末期までの日本の社会・経済システムは、自民党の長期政権のもと大蔵省を中心とする官僚機構を核とした護送船団方式で運営されてきた。そこでの検察の使命は、官僚機構に介入して利権を貪ろうとする政治家からその機構を守ることだった。つまり、政界汚職の摘発だ。間欠的であれ、それを果たしていれば、国民は検察を信頼し、応援団でいてくれた。その象徴が首相の犯罪を暴いた1976年のロッキード事件の摘発だった。田中が上告中に亡くなるまで、17年近く法廷で元首相側と死闘を繰り広げた検察に対し、世論は熱いエールを送った。
しかし、バブル崩壊にともなう金融機関の不良債権処理をめぐる失政で、大蔵省は国民の信頼を失った。世論に背中を押された検察は98年、金融機関からの接待汚職で大蔵官僚を摘発。守るべき官僚機構にメスを入れ、護送船団体制にとどめを刺した。