名実ともに表裏の権力を握った菅
安倍は去り、最高権力の座は、官邸の裏方を取り仕切った菅が引き継いだ。菅は官房長官として配下の官房副長官兼内閣人事局長の杉田和博とともに、7年8カ月続いた第2次安倍政権で検察人事について強い影響力を持っていた。2人は一連の騒動の政界側の影の「主役」だったと言ってもいい。この物語を読み進めていただければ、それが明らかになるだろう。
名実ともに表裏の権力を握った菅はさっそく、「地金」をあらわした。政府から独立した立場で政策提言をする科学者の代表機関「日本学術会議」が、新会員として推薦した候補の研究者105人のうち6人の任命を拒否したのだ。
学術会議の会員は、特別職の国家公務員で同会議の推薦を受け政府が任命する。6人の中には安全保障関連法など安倍政権の政策に反対を表明した人も複数含まれており、学術会議側や野党から「憲法が保障する学問の自由への侵害ではないか」との批判が相次いだ。これに対し、菅は記者会見で、6人に対する除外理由を「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」などと述べるだけで、具体的な除外理由の説明を拒んだ。この人事判断でも杉田が重要な役割を果たしたとみられる。
20年10月4日の朝日新聞朝刊は、「官邸が16年夏の補充人事の選考過程で難色を示し、3人の欠員が補充できなかった」と伝えた。その後の報道などによると、これが安倍政権による最初の本格的「介入」だったようだ。法務事務次官の人事を皮切りに法務・検察への人事介入が始まったのも16年夏だった。これは偶然ではなかろう。第2次安倍政権での政治主導による官僚人事グリップに自信を深めた「安倍・菅政権」が、満を持して従来、「アンタッチャブル」とされた領域にも果敢に踏み込み始めたことを示しているようにも見える。
その菅が今後、因縁の検察にどういう姿勢で臨むのか。とりあえず、16年以降の4年間に政権と検察の間で何があったのか、なぜそうなったのか、当時の取材メモを元に解き明かす。