大蔵省の失墜で、官僚機構は力を失った。その官僚機構の一部である検察も無事ではすまなかった。2002年、情報提供者への謝礼に充てるべき検察の調査活動費を、検察幹部らが流用していた疑惑を告発しようとした大阪高検公安部長を、大阪地検特捜部が微罪で逮捕すると、「臭いものに蓋をするため検察権を使ったのではないか」と国民の不信を買った。
そして、10年、厚生労働省局長の村木厚子(その後、事務次官)の無罪事件の捜査をめぐり、大阪地検特捜部の主任検事が調書と齟齬をきたす押収証拠の改竄に手を染めていたことが発覚。元特捜部長ら3人が逮捕された。検察は、世論の批判を受けて意気消沈し、萎縮した。国民が期待する政治腐敗の摘発から遠ざかり、国民の信頼を完全に失った。
その後、法務・検察は、信頼回復のため、黒川や林(真琴)が中心となって抜本的な組織改革と捜査モデルの転換に着手するが、政治の協力なしでは法案ひとつ通せなかった。そして、12年暮れ、「政治主導」を強調し、各省庁幹部に対する人事グリップに意欲を燃やす第2次安倍政権が登場する
菅政権と検察の関係は?
そもそも、今回の「黒川・林騒動」は、2016年9月の法務事務次官人事が発端だった。当時の法務・検察首脳らは、刑事局長だった林を3代先の検事総長にする方針を固め、同年夏に法務事務次官だった稲田(伸夫)が、林をその登竜門でもある事務次官に起用する人事案を官邸に示した。ところが、官邸はそれを拒否し、官房長の黒川の次官起用を求めた。官房長官の菅らは重要法案の根回しなどで政権運営に貢献した黒川を高く評価していたのだ。
法務・検察は、稲田と官邸側との折衝で「1年後には林を次官にする」との感触を官邸から得られたとして菅らの意向を受け入れ、黒川を事務次官に起用した。法務・検察は、大阪地検特捜部の不祥事を受けた組織整備と手続き改革にようやく道筋をつけ、現場のテコ入れに取り掛かるところだった。本格的な政界事件の摘発は絶えており、16年当時の検察には官邸を押し返す力はなかったのだ。
結局、官邸は林を次官にしないまま18年1月、検察序列ナンバー4の名古屋高検検事長に転出させ、黒川を19年1月、検察ナンバー2の東京高検検事長に起用した。
政治と検察の舞台裏に詳しい元検察首脳は、黒川の検事総長含みの勤務延長が決まった直後、安倍政権について「特異な体質の政権だ。法務省が何を言っても、聞く耳をもたなかった。いずれ毒が回る」と評した。その予言は的中し、安倍は任期を残して政権を放棄した。