文春オンライン

「ショーに来るのは今夜が最後だ」 “人間魚雷”ゴーディが盟友ヘイズと共にした最後の数分間

『忘れじの外国人レスラー伝』より #2

2020/12/07
note

 プロレスラーとしては実力的にも体力的にもピークにあたる20代前半から30代前半までの10年間を全日本プロレスのリングで過ごし、ひとりで街を歩けるくらいの日常会話の日本語のスキルも身につけた。

 ある日、ゴーディがみんなのまえから姿を消してしまうのではないかという漠然とした予感、なにかそういう危なっかしさはずっとあった。

六本木のナイトクラブで脱水症状…心臓が一時停止

 むし暑い夏の夜、六本木のナイトクラブで脱水症状を起こして倒れ、心臓が一時停止したことがあった(90年7月)。93年5月、アメリカから東京に向かう国際線のなかで昏睡状態になり、タンカに乗せられたまま飛行機から出てきて、そのまま成田空港から救急病院に搬送され、5日間も意識不明の危篤状態がつづいたこともあった。両ヒザ、腰に故障を抱えていたため多量の鎮痛剤を服用していた。ゴーディはこのときまだ32歳だったが、10代から酷使してきた肉体は“非常ベル”を鳴らしていた。

ADVERTISEMENT

©iStock.com

 それから1年後、なんとかリング復帰を果たしたが、94年7月をもって全日本プロレスとの契約は満了。その後は98年まで現役生活をつづけ、不定期ながらIWAジャパン、天龍源一郎主宰のWARといった後発団体のリングに活動の場を求めた。

最後の六本木

 1998(平成10)年8月、ゴーディはふらりとほんの1週間だけ日本に戻ってきた。いまになってみると、これが最後の来日だった。

 ギラギラのネオンサインと色とりどりのタクシーと左側通行の道路をながめていると、またこの街に戻ってきたんだという実感がわいてくる。ゴーディの南部なまりのイングリッシュで発音すると、ジャパンが“ジャッパーン”、トーキョーが“トーキオ”になる。

 生まれて初めてジャッパーンに来たのは15年もまえのことだ。夏の終わりだった。蔵前国技館のリングでテリー・ファンクの回転エビ固めを食らった。それからディープサウスとジャッパーンを行ったり来たりする生活がはじまった。

 ゴーディはトーキョー・ウォッチングの達人である。とくに六本木にはうるさい。ナイトクラビングの街だから、お酒を飲んで、そのへんをほっつき歩いて、またお酒を飲んで、またそのへんをいつまでもほっつき歩いていればいい。なるべく時計を見ないようにして遊んでいると、このままずっと夜がつづくんじゃないかという気がしてくる。

 ちょっとまえまでスティーブ・ウィリアムスといっしょによく足を運んだ“ピップス”は――ロア・ビルのまえから信号を渡ったところ――いつのまにか妙に立派なチャイニーズ・レストランに姿を変えていた。ホーク・ウォリアーに教わって通うようになった“カウンター・バーミストラル”は、オーナーが代わったのか、バーテンダーも客層もガラッと様変わりしていた。“ピップス”のあったビルの1階のオレンジ色のイタリアン・レストラン――いまはうどん屋さんになっている――は、何年かまえまでは“ジャック&ベティ”という朝まで開いているカフェ・レストランだった。