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 そんなことにがっかりしてもしようがないのかもしれないけれど、時間がたってしまった現実はゴーディをちょっとだけメランコリックにした。なんとか試合ができる体にはなったから、またなんとなくジャッパーンに戻ってきた。サディーデイジーではプロレスラーとしてよりも子どもたちの父親としての役割のほうが大きくなった。でも、やっぱりたまには飛行機に揺られてどこかへ行きたくなる。

 ジャッパーンには30団体以上のレスリング・カンパニーがある。どこのオフィスとどこのオフィスが協力関係にあって、だれとだれが仲がよくて、だれとだれが仲が悪いかなんてひとつひとつはおぼえきれないけれど、そんなにたくさん上がるリングがあるんだったら、どこでプロレスをやったっていい。このまましばらくこの街にいるのもいいかもしれない。

 トーキオはネオンとタクシーと左側通行の街。道ばたで手をあげれば、すぐにタクシーが停まってくれる。六本木の夜はテネシーの夜よりも長い。

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「まだ帰りたかねえや。I don't wanna go home yet.」

 ゴーディはガッハッハと笑った。

フリーバーズのラストシーン

 ひょっとしたら“自由な鳥”は“自由な鳥”なりの運命のようなものをわかっていたのかもしれない。永遠の眠りにつく6日まえ、ゴーディはサディーデイジーの自宅からアラバマ州バーミンガムまで自動車を飛ばして親友ヘイズに会いにいった。

 1998(平成10)年に現役生活にピリオドを打ったヘイズは、WWEでプロデューサー業に転向していた。テレビショー“スマックダウン”のバックステージで、40歳のゴーディと42 歳のヘイズはいっしょに過ごす最後の数分間をシェアした。

 ゴーディが天国へ旅立った2001(平成13)年7月16日は、ゴーディにとっては兄貴分のような存在だったブルーザー・ブロディの13回目の命日だった。ゴーディの突然の死は、それぞれに数奇な運命をたどり、それぞれ若くして非業の死をとげたブロディとエリック兄弟たちの“カース=呪い”なのかもしれないし、まったくの偶然かもしれない。

 ヘイズと最後に会った夜、ゴーディは「こんなビッグショーに来るのは、今夜が最後だ」という意味のことを口にしていたという。ヘイズは「なにいってんだ、また来いよ」といってゴーディの肩をぎゅうっと抱きしめた。これがロード・ムービー“フリーバーズ”のラストシーンだった。

 その月曜の朝、ベッドによこになったままの“自由な鳥”を発見したのは、ゴーディの妻だったカーニーさんではなくて、いっしょに暮らしはじめていたゴーディの新しいフィアンセだった。死因は心臓のそばにできていた血栓だった。

 名曲“フリーバード”の歌詞の最初のフレーズは“もしも、あした、ぼくがここからいなくなっても、キミはぼくのことをおぼえていてくれるかい? If I leave here tomorrow, would you still remember me?”である。

忘れじの外国人レスラー伝 (集英社新書)

斎藤 文彦

集英社

2020年11月17日 発売