事件は今も生々しい記憶を残していた
義理の父親とは、小平の甥っ子に当たる。近くの畑にいるという。彼女との短い会話の中で、小平のことを切り出すか逡巡したが、結局私は尋ねなかった。いや、尋ねることができなかった。彼女の見知らぬ者への警戒なき態度を見るかぎり、小平のことに関して取材を受けたことなどないのだろう。彼女の心を乱すことを躊躇った。取材者としては失格である。
最後までにこやかだった女性に礼を言い、小平の実家を後にした。
彼女に言われた畑は、1000年以上の歴史がある磐裂神社の素朴な社の目の前にあった。白い軽トラックが止まっていて、畑では初老の男女が畑仕事に勤しんでいた。小平の甥っ子夫婦だろう。私は社に手を合わせて気を鎮めてから、夫婦の近くへと歩いていった。
「こんにちは」
と、畑で作業をしていた銀縁のメガネをかけた丸顔の男性に声をかけた。
先ほどの女性とは打って変わって、笑顔はない。顔に緊張が走るのが見てとれた。この土地でよそ者が訪ねてくるといえば、一族の汚点を探る者しかいないと感じているのだろうか。小平事件のことは生々しい記憶として心に刻み込まれているにちがいない。
「なんでしょうか」
探るような目つきで尋ねてきた。
「事件について調べているんです」
男性の顔が、先ほどにも増して険しくなった。私はまだ小平の「お」の字も告げていなかったが、すでに男性はすべてを悟っていた。こちらから質問を投げかける前に口を開いた。
「戦中の生まれですからね。当時のことは、よく覚えていないんですよ。両親が言うには、この辺の村は都会に比べたら、食糧に困るようなことはなかったらしいですけどね。米は取れないところでしたけど、麦はありましたから、すいとんばっかり食べたのはよく覚えています」
親族の犯した事件には一切触れず、断片的に覚えている当時の生活について話してくれた。
男性の態度や話しぶりから、あの事件の重さが十分伝わってきた。事件についての思いを聞かずとも、もういいだろうという気持ちになった。事件は今も生々しい記憶を残している。男性に礼を言うと、畑を後にした。