彼らはなぜ人を殺めたのか。殺めなかった私との境界線は何だったのか。その理由を求めて、殺人事件の現場や当事者たちが生まれ育った町を徹底取材して見えたのは、近代の「闇」だった――。

 戦前から現代まで、社会や時代状況に絡み合って起こった重大事件の現場を丹念に歩いたノンフィクション作家・八木澤高明氏の話題作『日本殺人巡礼』(集英社文庫)から、一部を抜粋して転載する。

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食糧を求める人の群れから女を探す

「終戦後は何といっても、食糧が女の心をいちばん動かしました。私はそれを利用したのです」

 戦後の食糧難の時代、7人の女性を栃木県や都内のひと気のない山林へと誘い出し、次々と強姦したうえ殺害した小平義雄の言葉である。

東京・芝の増上寺裏で17歳少女の全裸死体が見つかり、小平の犯行が発覚した ©️八木澤高明

 小平が犯行に手を染めたのは、1945(昭和20)年5月から翌年8月にかけてのこと。明るみに出た犯行以外に、30件以上の余罪があるとも言われ、実際どれだけの罪を犯したのかは、すでに刑場の露と消えた小平のみが知り、闇の中である。

 終戦前から食糧は欠乏し、都市に暮らす人々は着物や時計など金目のものを持って、郊外の農村地帯へと野菜や米などの買い出しに出かけた。米軍キャンプなどから出た残飯が闇市で売られた時代でもあった。

 その日を生きるため血眼になって食糧を求める人々の群れの中から、めぼしい女を見つけては声をかけて、小平はその毒牙にかけたのだった。

間隙を突くような小平の犯罪

 食糧難という言葉は、今の日本においては死語であろう。ただ少なくとも70年前を生きた人々の心には深く刻まれている。

 戦後直後の食糧難はなぜ発生したのか。戦前の日本の食糧自給率は80パーセントほどで、あとの2割を中国や朝鮮半島、タイなどからの輸入で賄っていた。日本国内だけで、自国民を養えるだけの米を収穫することができなかったことが理由の一端にある。1941年に米英連合国と開戦し戦域が拡大、農作業に従事してきた若壮年層の男子が戦地へ出征したことが食糧事情を悪化させた。さらに、日本へ物資を運ぶ輸送船団がアメリカの攻撃によって沈められ、米の輸入が滞っただけでなく、農薬も不足した。当時、農薬は満州などで製造され、日本に輸入されていた。米の収穫量は1945年の時点で開戦時の6割ほどしかなく、輸入米も入らなくなったことから、都市部には米が回ってこなくなったのである。

小平の犯行を伝える当時の新聞(朝日新聞1946年10月6日付)

 そもそも日本が米を自給できていたのは江戸時代までで、明治時代に入ると工業化と人口増加により自給率は低下していく。その後日本は、資源を求め満州や南方に進出していくわけだが、その根底には、食糧を求めていたという事情もある。日本が欧米列強にならって富国強兵の道を歩みはじめたときから、後に掲げられる大東亜共栄圏は理想だけではなく切迫した現実を切り開くひとつの手段でもあった。世の中の大きなうねりの中で人々は翻弄され、その間隙を突くような小平の犯罪が生まれることになる。