小平事件の現場は米軍の性欲処理の場へ
小平が事件を起こした悟空林の隣には、戦後東京で最初の米軍向け慰安施設となった「小町園」が建っていた。悟空林と小町園のあった場所は現在マンションとなっている。裏手は「しながわ水族館」である。小町園と悟空林は、皇居から見ると都の南の外れであり、東京の婦女子を米兵から守るための防波堤とするには打ってつけの場所であった。ほど近い場所には、鈴ヶ森刑場がある。刑場は江戸を守るための結界の役割を果たしたわけでもあるが、時代が下って、ここ大森に性の防波堤が築かれたのも江戸時代から続く地縁と無関係ではないだろう。
マッカーサーがトレードマークのパイプをくわえて神奈川県厚木飛行場に降り立つ2日前の8月28日、マッカーサーの露払いをする先遣隊150名が沖縄から厚木に入った。それを待っていたかのように前日の8月27日、小町園に30名の女たちが到着した。彼女たちを送り込んだのは、日本政府によって創設されたRAA(特殊慰安施設協会)だった。
女性たちは、RAAが新聞に掲載した女性従業員募集の広告を見た戦争未亡人や、空襲で家族を失った寄る辺なき者たちだった。広告には、米兵相手の慰安婦募集とは書かれておらず、衣服、食糧、住宅の保証など好条件に惹かれて応募してきたのだ。
生娘もまじった素人の女性30人
戦前から小町園で働いてきた女中が、米兵を相手にすることになった30人の女たちの姿を目にした記録が『証言昭和二十年八月十五日』(新人物往来社)に収録されている。
“いよいよ、明日の二十八日、厚木へ進駐軍の第一陣がのり込むという、その前日になって、お店の前に、二台のトラックがとまり、そこから、若い女のひとばかり三十人ばかりが、おりて、なかへ、ぞろぞろ入ってきました。(中略)その女のひとたちが、進駐軍の人身御供になる女だ、とすぐ分り、私たちは、集まって、いたましそうに、その人達を見やりました。
モンペをはいているひともいますし、防空服みたいなものをつけているひともいます。ほとんど、だれもお化粧をしてないので、色っぽさなど、感じられませんが、しかし、何といっても、若い年頃のひと達ばかりですから、一種の甘い匂いのようなものが、たゞよっていました。
このひとたちは、みんな素人のひとでした。(中略)銀座八丁目の角のところに、新日本の建設に挺身する女事務員募集の大看板を出して集めたひと達ですから、進駐軍のサービスをするという事は分っていても、そのサービスが肉体そのもののサービスだとは思わなかったひと達もいて、なかには、そのときまで、一人も男のひとの肌には触れなかった生娘も何人かまじっていました”
女たちの姿が瞼に浮かんでくるような記述である。マッカーサーが厚木に降り立った日、5人の米兵たちが現れた。特に問題を起こすことなく事をなすとチップとタバコを置いて帰っていった。5人の米兵がその経験を兵舎で語ったのか、翌日からは多くの米兵が集まり、大混乱の様相を呈した。土足で入ってくるのはまだかわいいもので、なかには女であれば見境なく事務員にまで手を出そうとする輩もいた。日に日に混乱はひどくなり、10人以上の米兵を相手にするのは普通で、朝から晩まで60人を相手にし、病院に運ばれ絶命した女もいたという。
米兵たちに体を売ると知らずに小町園で働いた女たち、絶命した女たちが、「食糧が手に入る」と小平に騙され、強姦されたうえに殺害された女たちの姿とだぶって見える。どの女たちにとっても、毎日が生存競争であった。紛れもなく、時代の濁流に翻弄された人々なのだ。