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足尾銅山の恩恵を受けた土地 

 小平が生まれたのは1905(明治38)年1月28日、日露戦争開戦の翌年だ。大国ロシアを相手に勝利し、日本は世界の一等国に仲間入りしたと、人々が鼻高々になっていた時代である。一方で、都市部ではスラムが形成され、下谷万年町では木賃宿が急増、資本主義化による光と影がくっきりとした輪郭をつくりはじめていた。

 小平が生まれた村は、日本の近代化とは切っても切れない因縁があった。

 村からひとつ峠を越えると、そこには足尾銅山がある。江戸時代初期に開かれた足尾銅山も、中期にはすでに銅が掘り尽くされ、明治に入ると廃鉱同然であった。その足尾銅山を古河市兵衛が買い取った。ヨーロッパの採掘技術を駆使して採掘すると巨大な鉱脈が見つかり、日本の国家財政を支えるほどの銅を産出するようになる。明治政府にとって、銅は生糸に次ぐ重要な輸出品目となった。当時ヨーロッパを中心に電線や電話網の整備が急ピッチに進んだことや、砲弾の先端に銅合金が不可欠だったことから、世界の市場で銅は高値で取引されたのだった。

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足尾銅山 ©️八木澤高明

村のほとんどの家は宿屋を経営

 産出された銅は小平の村を通って現日光市の今市に集められた。村は銅山を行き来する者たち相手の商売で活況を呈した。さらには銅を精錬する精銅所ができたことで、村と足尾銅山は一衣帯水の関係となる。日光方面から銅山へ向かう際は人の足頼みであり、夕方になると峠越えを諦めた旅人たちの宿が必要になる。小平の生家も含め、村のほとんどの家は宿屋を経営していた。『日光市史史料』第六集には村人たちの証言が集められている。

 “足尾に行く人は、一般の旅人も商人も全部ここを通ったから、足尾とは切っても切れない関係であったわけです。上り二里、下り三里の道で五里の道は夜になると通れないから、部落の個人の家は、その当時は皆宿屋になったわけです”

 明治日本の産業革命は、小平の村にも及んだ。一方で、銅山開発が進むにつれて、銅山から流れ出た鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した。国家を支える銅山の採掘が最優先され、鉱毒被害者たちが顧みられることはなかった。足尾銅山に隣接していた松木村は、鉱毒の被害によって廃村となり、村人たちは小平の村に移住してきた。小平が生まれる3年前のことだ。