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この地に人が暮らした歴史は古い 

 足尾銅山が明治時代になって再開発されるまで、生家のある村は山深く、標高も高いため米は取れず、稗や粟、麦などを常食とする貧しい土地であった。ただ、この地に人が暮らした歴史は古い。826(天長3)年には村の鎮守である磐裂神社が造営されている。磐裂神社は明治時代の廃仏毀釈によってつけられた名前で、それまでは妙見神社と呼ばれていた。妙見信仰は、古代バビロニアに起源を持つといわれ、彼の地の遊牧民たちが北天で動かない北極星を道標として利用し、神と崇めたことに端を発する。バビロニアから中国へと伝わり、朝鮮半島を経て日本にも伝播した。日本には7世紀に伝わり、百済や新羅からの帰化人たちが信仰し、後に彼らが関東地方の開発に携わったことで広まっていったといわれている。

古河発電所跡 ©️八木澤高明

 8世紀以降、日光は勝道上人などの山岳修験者たちによって開かれた。源流をたどっていくと、山岳修験は日本のシャーマニズムと大陸から伝わってきた道教の神仙思想とが融合しながら発展してきた経緯もあり、帰化人たちとも結びついていく。修験者たちは、鉱物に関する知識も豊富で、日本各地の鉱山開発の先駈けとなった。日光周辺には足尾銅山だけでなく、金精峠など鉱山とつながりのある地名も多く残されていることから、修験者たちが日光周辺を歩き、鉱山開発に携わっていたことは疑うまでもない。

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 帰化人たちの関東入植で重要視されたのは、鉱山開発である。埼玉県秩父において銅が発見されたのは708年のことで、そこから東国の開発がさらに進んでいく。大和朝廷は、716年に武蔵国に高麗郡を設け、1800人の高句麗人を移住させた。日光が勝道上人によって開山されたのは761年だから、これも東国開発の流れに沿った動きともいえよう。村にある神社は彼らとのつながりによって造営されたと推察できるのではないだろうか。