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「小平に殺害された女性の幽霊が…」

 死体が遺棄されていた現場について尋ねると、興味深い話をしてくれた。

「現場はゴルフ場から近い場所にあるんだけど、昔ゴルフ場を造成するときに幽霊騒ぎがあってさ。重機の運転手が土地を造成しているとき、女の姿が見えたって言って逃げ出したなんてこともあったよ。峠には、今も夜になると女の人が立っているなんて話をよく聞くよ。霊感のある人には見えるらしい。うちの息子なんかも、あそこの峠は通りたくないって言ってるよ」

 幽霊は、小平に殺害された女性にちがいないと男性は言った。

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 70年以上経っても、小平の起こした事件は、この土地にしっかりと記憶されているのだった。

 腹を空かせ、その日その日をしのぐために小平についていき、弄ばれたうえに殺められた女性は、さぞかし無念だったことだろう。それゆえ今も成仏できず、腹を空かせたまま、この渇きを知らない時代を彷徨っている。そして小平自身も人々の記憶の中に、まるで生き霊のように生きているのである。

小平が女性の死体を遺棄した芝・増上寺 ©️八木澤高明

闇は日常の一寸先にある 

 戦争による食糧難の時代が訪れなければ、龍はトラを殺めることはなかっただろう。

 貧しいながらも、つつましく生きていくことができたはずである。

 それは小平事件にもいえることで、女性たちが食糧につられて犯され殺されることもなかった。さらにいえば、フィリピンの山村でマヨールさんが日本兵の人肉食を目撃することもなかった。

 それらの現場を今日歩いてみても、凄惨な事件の匂いはどこからも漂ってこない。一見、事件は遠い過去のようにも感じられる。ただ、私が当たり前だと思っている平穏な日常も、ひとたび戦争や災害が起きればもろくも崩れ去り、災いが容赦なく降りかかってくることだろう。

 戦争の悲劇は、爆弾が破裂し人命が失われることだけではなく、空気のように存在すると思っていた平穏な日常が簡単に崩れ去ることにある。

小平の愛人宅があったとされる跡地付近 ©️八木澤高明

 今の日本を包み込んでいる日常が、いつまでも続く保証はどこにもない。いつの日か、私が誰かを殺め、食すかもしれないし、その逆もまたしかり。日常の一寸先は闇であることを、戦争にまつわる事件は訴えかけているのである。

 私もあなたも、まだ食さずに、食されずにすんでいるにすぎない。

日本殺人巡礼 (集英社文庫)

八木澤 高明

集英社

2020年9月18日 発売