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1995年地下鉄サリン事件 なぜ理系の高学歴者は、麻原彰晃にのめり込んだのか

『私が見た21の死刑判決』より#15

2020/12/19

source : 文春新書

genre : エンタメ, 社会, 読書

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 1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。この事件で同時に起訴され、主張や弁護人の足並みの揃った実行犯である廣瀬健一と豊田亨、それに送迎車の運転手役だった杉本繁郎の3人がいっしょに並んで、同じ法廷の裁判に臨んでいた。

 その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)

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地下鉄サリン事件の実行犯たち

 地下鉄サリン事件──。渋谷のマンションの一室から、5台の車に分乗して実行役を担当路線の駅に送り、そこから乗り込んだ地下鉄車輛内にサリンを散布して下車。送迎車は降車駅に先回りして彼らをピックアップすると、再び渋谷に戻る。標的は霞ケ関。同駅を通る3路線上下5方面。散布方法は、新聞紙に包んだサリン入りポリエチレン袋を車床に落とし、尖った傘の先で突いて漏出させると同時に降車するという、単純なものだった。

 これが各路線で同時多発的に実行されて、1995年3月20日の東京の朝は、大混乱に陥った。

 その時、実際に地下鉄に乗り込んでサリンを撒いたのは、理科系の高学歴者が多かった。

©iStock.com

 林郁夫も慶応大学を卒業した心臓外科医であったし、また、日比谷線東武動物公園方面往きを担当した豊田亨は東京大学理学部を、丸ノ内線荻窪方面往きを担当した廣瀬健一は早稲田大学理工学部の応用物理学科を首席で卒業していた。この豊田と廣瀬に、送迎車の運転手役だった杉本繁郎を加えた3人がいっしょに並んで、同じ法廷の裁判に臨んでいた。

 そもそも、同じ事件を犯した共犯者であるならば、全員が一堂に会して同じ裁判長の前で裁かれるのが本筋だった。しかし、同じ共犯者であっても、主張が異なったり弁護方針が違うような場合には、同じ裁判長のもとでも、分離されて公判が開かれる。あるいは、このオウム事件の場合には、地下鉄サリン事件とは別に起訴された事件の関係で、他の裁判長(東京地裁には刑事第1部から第16部まであった)のもとに配置されていたりで、なかなかまとまって裁判を受けるケースは少なかった。運転手役とはいえ杉本などは、日比谷線中目黒方面往きを担当して最多の死者8名を出した林泰男を送迎していたのに、裁判がはじまっても当の林泰男はいまだ逃走中だった。豊田、廣瀬を送迎した運転手もやはり、捕まっていなかった。