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経堂と千歳船橋、小田急線のとなり駅で育ったふたり……“坪内祐三の見た風景”を高田文夫が読む

高田文夫が『玉電松原物語』(坪内祐三 著)を読む

2021/01/11
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『玉電松原物語』(坪内祐三 著)新潮社

 60年以上も買い、読み続けているのに「週刊文春」からの原稿依頼というのも珍しい。きけば2020年1月に急逝した坪内祐三の遺作『玉電松原物語』(新潮社)をとりあげたいとのこと。きっと担当者は「たしか何かに書いてたけど高田もあのあたりじゃね」なんて感じで言ってきたのだろう。その通りなのだ。坪内は昭和33年渋谷(初台)に生まれ世田谷(赤堤(あかつつみ))に育った。私は昭和23年渋谷(富ヶ谷)に生まれ世田谷(千歳船橋)に育った。坪内の小田急線最寄り駅は経堂で、となり駅が私の駅。10歳違いとはいえ生まれも育ちもほとんど同じ。口(筆)は悪いがそこにどことなく品があるのもまったく同じ。同じ匂いに親しみも感じ“文化”の弟のような感じも抱いていた。当誌では長いこと「文庫本を狙え!」という連載を持っていて私も数回狙われて取りあげてもらい少しは感謝もした。対談などで逢うと照れて一方的に喋り「子供の頃誰が好きだったの」などやたら訊(き)かれ「森繁久彌の家が近くだったから、いつも庭に忍び込んで柿とか栗を盗むと棒を持った森繁が“またお前かーッ”と追っかけて来るから面白くて」という話をすると、ことの他喜こんだ。世田谷土着の話である。お互いガキの頃は下町の演芸場の「笑い」ではなく「社長漫遊記」の山の手の社長ものの笑いが好きな事でまた一致。森繁・三木のり平が大好きなのである。

 タイトルにある玉電というのは渋谷から二子玉川まで走っていた早い話がチンチン電車。道路が混んだりすると玉電はすぐ遅れる。私の高校(日本学園)は松原の近くの明大前にあったので事故などあると船橋から豪徳寺(玉電山下)で降り玉電で下高井戸へトロトロ行って明大前へ。「遅延証明書」なんていくらでもくれるので先生に「こういう訳で遅れました」と言い訳するとおでこをゴツンとやられ「ジャマ電なんかに乗るから遅刻するんだ。歩いた方が早いに決まってるだろ」としかられ遅刻はまったく認められなかった。そう「玉電」は地面を走るから地元では「ジャマ電」と言われていたのだ。ずば抜けた記憶力で坪内はあの頃の世田谷を再現し活写していく。私が「忘れてた」と膝を打ったのは「植草甚一が居た」という話だ。雑学王であった坪内、その元祖植草甚一が住んでたのだ。カルチャーである。私も経堂の古本屋で本当によく植草甚一を見かけた。このニュアンスがあの頃の世田谷の風を感じさせるのだ。戦後も75年、いつまでも江戸下町の文化だけでなく山の手にも独特の東京の文化がある事を書いてくれた坪内。江戸っ子と呼ばず我らは山の手小僧“のてっこ”である。まだまだ坪内とは銀座の話や渋谷の話、いっぱいしたかった。“江戸っ子”を“のてっこ”に変えて――「あっさりと恋も命もあきらめる 我がのてっこほど悲しきはなし」

つぼうちゆうぞう/1958年、東京都渋谷区生まれ、3歳から世田谷育ち。97年『ストリートワイズ』でデビュー。著書に『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』『一九七二』など。96年より「週刊文春」で「文庫本を狙え!」連載開始。2020年1月、急逝。

たかだふみお/1948年、東京都渋谷区生まれ。放送作家、タレント、文筆家。著書『ご笑納下さい』など多数。

玉電松原物語

坪内祐三

新潮社

2020年10月20日 発売

経堂と千歳船橋、小田急線のとなり駅で育ったふたり……“坪内祐三の見た風景”を高田文夫が読む

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