死ぬのに医者は要りません
小笠原さんの言うとおり、現場の経験値はどんどん上がっています。かつては施設でも訪問でも、看取りを怖がったり、ショックを受ける介護職への配慮が必要でした。ですから施設の責任者やケアマネは、終末期のお年寄りがいるところにはベテランを配置するとか、職員の手当を手厚くするとかの努力をしてきました。ですが、現場での経験値が上がるにつれ、高齢者の死はおだやかなゆっくり死だということがわかってきました。「死ぬのに医者はいらない」という本を、医者自らが書いているように、死ぬのに医者は要りません。医者は死んだ後に死亡診断書を書いてもらうために要ります。あらかじめ主治医として訪問医療を受けていれば、医者に立ち会ってもらわなくても死亡診断書は書いてもらえます。
医者のなかには、自分が主治医として担当した患者の臨終には立ち会いたいというこだわりを持って深夜早朝でも往診する医者もいますが、死ぬことが予期できる患者に対しては、家族から一報を受けたあと、夜が明けてからゆっくり患者宅へ赴く医者もいます。そのあいだのエンゼルケア(清拭や死化粧などの死語の処理)は、訪問看護師が家族と共に行います。
在宅の見取りは穏やかなもの
最近現場で聞くのは次のような声です。
「死ぬのに医者は要りません。わたしたち看護師だけでじゅうぶんお看取りができます」
そればかりか、介護職の人たちの経験値もあがり、こうおっしゃいます。
「死ぬのに医者も看護師も要りません。わたしたち介護職だけでお看取りできます」
考えてみればかつての在宅看取りは、医療職でも介護職でもないしろうとの家族がやっていたのですから、できないわけはないのです。
在宅看取りは介護職がパニクると言われたのはひと昔前のこと。現場を経験してみれば、在宅のお看取りは穏やかなものだと、専門職の人たちが場数を踏んで自信をつけてきました。
高齢者の死はゆっくり死だと書きました。下り坂をゆっくりくだっていくお年寄りの日常を見ている介護職は、「そろそろかな」と感じとります。そうなれば離れているご家族に喪服を持ってお越し下さい、と声をかけることは前著で書きました。ですから、ひとりで死にたくない、誰かに見守られて死にたいとお望みなら、それはかなえられます。ですが、わたしなどふだんからおひとりさま、それが臨終のときだけ、親族縁者が死の床の周りを囲むなんて、シュールすぎます。できれば静かに逝かせてほしいものです。