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談合の総元締め

 この前田のあとを継いだのが、植良祐政といわれる。もとはといえば、植良も田中邸に日参していた業務屋(談合担当者)の一人だが、金丸をはじめとした田中派の幹部と知り合い、懇意になっていく。やがて前田と植良は、二人三脚で全国の公共工事に口を出すようになる。鹿島建設の前田としても、スーパーゼネコンではない飛島建設の植良なら、組みやすかったのかもしれない。いつしか二人はゼネコン業界で盟友と呼ばれ、田中角栄の献金は植良を通さなければ受け付けない、とまで語られるようになる。

 1984年、鹿島建設副社長の前田忠次が鬼籍に入り、翌85年には田中が脳梗塞に見舞われる。そうして植良は、田中から政界のドンの椅子を譲り受けた金丸信とともに、業界の天皇にのしあがっていった。準大手の飛島建設会長でありながら、全国の談合組織「経営懇話会」の会長として、大型工事を差配するようになる。

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 そうして植良は、各社の談合担当者が機嫌をうかがうような伝説的な仕切り役となる。全国に声が届く談合の総元締めだ。

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東西談合組織の「天皇」

 そんな東の植良に対する西の平島栄は、もともとスーパーゼネコンの一角である大林組にいた。大林から西松建設に移るや、西松を収益業界ナンバーワンに押しあげた立役者である。植良とともに東西談合組織の「天皇」と呼ばれ、ライバルのように見えるが、二人は対等ではない。植良にとって平島は年齢も下で、可愛い後輩のような存在だったといわれた。平島も植良にならい、金丸信とのパイプを築きあげた。そのあたりの微妙な人間関係について、先の某ゼネコンの元東北支店長が解説してくれた。

「もとはといえば、平島さんは植良さんの足元にも及ばなかった。けど、西松に移る少し前あたりから、植良さんと仲良くなったね。東京のドンの植良さんが金丸さんの意向を受け、植良さんの子分の平島さんが動く。そんな時代がしばらく続きました。その植良さんと大林が大喧嘩したことがあって、そのあと平島さんも大林と揉めるようになる。平島さんは大林の常務だったんだけれど、世間に大林の談合の実態をばらす、とまで言い出してね。後ろ盾が植良さんでした。そんなこともあって、二人はますます親交を深めた。平島さんが大林から離れたのは、実兄が西松に籍をおいていたからだともいわれましたが、実際は金丸さんへ頼んで西松に入ったのだと思います。ちょうど佐川急便事件で金丸さんが逮捕される直前でした。そうして平島さんは、西松で植良さんの名前を借りてあっちこっちの仕事をとっていったわけです」