ここで起きていることを言い換えると、『ズートピア』は多文化主義のみを問題として提示することで、フェミニズム的な問題は「すでに解決済み」のものとして覆い隠している、ということだ。『ズートピア』の多文化主義の真の顔は「フェミニズム以降のフェミニズム」なのである。
『BEASTARS』が問う、“意識の低い”肉食獣はどうすればいいか
『BEASTARS』は『ズートピア』が示してみせた、「フェミニズムの問題は解決済みとされた多文化主義」という複合的な状況と、男性性との交渉の物語と言えるだろう。具体的には、ほかならぬ「草食=ベジタリアニズム、ビーガニズム」が、現在のリベラルな多文化主義の象徴であるとするならば、この物語はそのような「意識の高さ」に、意識の低い=肉食の男性性がどう対応するのかという物語なのである。
『BEASTARS』の設定の面白さは、肉食獣男子であるレゴシが飄々として大人しく、いわば「草食系」であるという逆転だ。これは、『ズートピア』的なリベラル多文化主義を背景としてどのような男性性、男らしさを提示するかという問題への一つの “解”であろう。
レゴシの「草食的」な男性性という解自体は、まったく新しいというわけではない。フェミニズムやリベラリズムに対応した男らしさの組み直しは、とりあえずは1970年代にメンズリブ運動が出てきて、それまでのマッチョな男性性を反省したあたりまで遡ることができる。
文化的な表現にもそれが反映されていく。私がその点で注目しているのは、「助力者」としての男性像である。
自立した女性のそばで、役に立とうともがく男性キャラたち
助力者といっても、お姫様を助ける騎士という、お馴染みの男性ではない。なにしろフェミニズム以降のお姫様は基本的に助力を必要としないのだから。そのような「戦う姫」のそばで、フェミニズム以降の男性はせめて何かの役に立とうともがく。
宮崎駿監督の作品はそのような男性性のゆくえをみごとに示しているように思われる。
『風の谷のナウシカ』のナウシカは、戦闘力と科学的知識とカリスマ性などすべてを備えたフェミニズム以降の女性であるが、この作品の男性たち(アスベルやユパ)は自らの道を切り開くナウシカを助けようと望みつつ、究極的には自分たちにその力がないことを認める。そこには、助けを必要としない女性主人公に助力をし、それによって自らの男性性を確認したいという積極的な欲望がある。
その欲望のなれの果てが『千と千尋の神隠し』のカオナシである。カオナシは主人公の千尋を物質的に助けようとするが、「私の欲しいものは、あなたには絶対出せない」とその欲望を拒否され、暴走する。カオナシは、助力者たりたいという「新しい男性」の欲望の暴走である。