「『和』こそ尊い」という暗黙の掟
さらに深く考えると、ここには、やはり、「ムラ社会」の「何事も話合いで解決するのが一番。いつまでも争っているのは『よきムラ人』ではありません。『和』こそ尊いのです」という暗黙の掟や約束事に基づく考え方、感じ方があると私は思う(なお、先の戦争中には、こうした傾向が、暗黙どころではなくむき出しになっていたという)。
また、「『訴訟はまず第一に当事者のもの。裁判官や弁護士が自己の考え方を押し付けるのは権威主義』という考え方が日本の法律家には弱い」ということもある。いいかえれば、無意識的にもせよ、「素人は黙って専門家に従っていればよい」という考え方が強いということだ。これは、一種のパターナリズム、家父長制的干渉主義である。たとえば個人主義的な傾向の強いフランスでは和解はほとんどないことと比較すると、国民性の相違が裁判官や弁護士の考え方、感じ方にも大きな影響を及ぼしていることは明らかだろう。
問題は、「日本の和解実務が、本当に、現在の市民、国民の司法、裁判官に対する期待に沿うものなのか?」ということだ。私は、昔であればともかく、今日では、訴えを起こす人々には基本的に判決志向が強まっているのではないかと思う。法律家の世界はなお狭く、自己満足的な傾向も強く、裁判官の世界はとりわけそうなので、人々のそうした思いを敏感にすくい上げる力に乏しいのではないか。
それでも多い和解決着
日本の民事訴訟の終局区分における和解率(裁判所における和解率)は約35パーセント、対席判決は約30パーセントである(残りについては、欠席判決と裁判外の早期和解に基づく取下げが大半)。私の経験からさらに具体的に述べると、新受事件100件のうち本格的、徹底的に争われる事件は約25件、そのうち3分の1前後が判決で、3分の2前後が和解で終局している。つまり、和解は対席判決以上に重要でその割合も大きい事件終局の方法なのだ。その手続や成立過程について当事者が十分に納得していないようでは、紛争解決手段としての民事訴訟に対する人々の信頼を高めることは難しい。