岡口処分についての考察
以上の処分について、どう考えるべきだろうか?
難しい問題なので、論点をいくつかに分けて述べてゆく。
ア まずは一般論である。こうした問題については、本来は、市民、国民の代表者が考え、判断、対応すべきだ。日本では、裁判官を支配、統制する権力機構としての裁判所当局がすぐに「処分」をするので、問題の本質がみえにくくなるのだ(日本の場合にも国会の裁判官訴追・弾劾の制度はあるが、これは基本的に犯罪等特殊なケースを想定していると思われ、手続が重すぎる)。
たとえば、その当否はおくとして、裁判官公選制の国や地域なら、次の選挙の際に投票者がどのような判断をするかという問題になる。政治家の選挙と同様だ。
裁判所と離れた中立の委員会が裁判官の任用や再任等を扱っている国なら、たとえば、その委員会が法律家や有識者の意見をも参考にしながら考えることになろうか。その結果、もし表現のあり方が適切ではないという意見が多ければ、とりあえずは、意見表明や勧告が行われて裁判官に配慮を促すといったことになるのではないだろうか。裁判官の独立や表現の自由との関係があり、正式な処分に至るにはかなり慎重であるのが普通だろう。
報復的処分という可能性
イ 次に私の個人的な意見をいえば、いずれについても、厳重注意処分、戒告といった絶対的でかつ重い措置(ことに、裁判官分限法に基づく戒告はきわめて重い処分である)がただちにとられなければならないような内容とまではいえないように思う。
特に最後の戒告については、実際にはそれ以前の岡口氏の(1)、(2)の表現や白ブリーフのみの何度もの半裸画像のアップを含めての処分という性格が強いと思う。
この点は、1998年4月に組織的犯罪対策法案反対派主催の集会に出席して、「パネリストとして出席するつもりだったが、懲戒処分もありうると地裁所長に警告されたのでそれは控えた。法案に反対することは裁判所法で禁止されていないと思う」旨発言したことから戒告処分を受けた寺西和史判事補の事件(最高裁1998年12月1日決定。同年7月24日の仙台高裁分限決定に対する抗告事件。5名の反対意見あり)と似ている。寺西事件では、積極的に政治運動を行ったというのが戒告の理由だが、これは本当に無理が大きく、実際にはそれに先立つ新聞への投書をも含めての報復的処分という性格が強いとの見方が、裁判官の間でも一般的だった。こうした事案については最高裁の結論はおおむね最初からわかっているようなものだが、寺西事件では5名もの反対意見が出ていることがそれを裏付ける。