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行為そのもののリスク

 しかし、「白ブリーフ一丁の画像のアップについては、法曹向けの総合ポータルサイトによってネット上では有名になっている状況でこのゆるゆるの場に参入しフォロワーを増やすには『安全地帯』にいる自分を思いっきり『落とす』ための仕掛けが必要だと考えてそうした」という趣旨の『告ぐ』の記述からすると、岡口氏は、ツイッターという新しい場でもフォロワーを増やして有名になるために、日本の普通の組織であれば非常にリスキーなものになりうる行動を、少なくとも公的には、建前上は、「裁判官の独立」という普通の人にはないヨロイをまとった身であると知りつつ選んだ、と解される余地がある。もしもそうであれば、それは、裁判官という地位を利用して社会や人々を愚弄する行為と批判される余地も出てくることになるだろう(先の画像アップについては、たとえば、あなたの上司、先生、医師等がそれをした場合にすんなり受け入れられるかを考えてみるとよい。人によって感じ方、考え方は異なると思うが、批判を受ける可能性のあるリスキーな行為であることは間違いないであろう)。

 こうした観点からすると、岡口氏の半裸画像アップ行為は、先進諸国においても、社会的な批判の対象となる可能性があると思う。もっとも、アメリカの場合だと、たとえば連邦最高裁判事であれば大問題になりうると思うが、地方の裁判官なら、相当な批判の対象となる地域と別にかまわないという地域とがあると思う。また、個人の意見が分かれる問題であることも事実だ。

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 参考までにアメリカの例を一つ挙げておくと、妻が殺されたことに関連して裁判所事務員との不倫が発覚したその地域の有力裁判官が、法曹協会等からの辞任勧告が出る可能性を認識して辞職したというケースがある(1969年、オハイオ州。ロバート・K・レスラーほか『FBI特別捜査官──裁かれた判事』〔翔田朱美訳。翔泳社〕)。この地域では裁判官をみる社会の目はそれなりに厳しいことがわかる(なお、この裁判官は実は他人にもちかけて妻を殺させていたと判明するが、それはずっと後のことである)。

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表現の正当性、相当性、裁判官のモラル

 岡口氏によるインターネット上の表現行為には、最高裁の圧政的な統制に対する反乱という側面もあり、彼はそこを強調したいのだろうし、私もそれは理解しているつもりだ。しかし、彼が実際に行ってきた表現のうち以上のような部分(それらは全体の中でみればごく一部であるとはいえ)の質や正当性、相当性、また裁判官のモラルとの関係ということになると、私は、一概にそれらを肯定することはできない。

 なお、私が尋ねてみた限りでは、裁判官、元裁判官の良識派の意見には、前記イ、ウの点についてより厳しいものもあった。その中でみれば、私の見方は、自由主義の要素も、表現の自由重視の傾向も、相当に強いほうに属する。公表されている厳しい意見の例としては、たとえば、無罪判決の多かった元裁判官木谷明氏のものがある(2018年11月10日『朝日新聞』「耕論」欄)。相当数の学生たちに尋ねてみたところでも、前記(1)ないし(3)の各処分のいずれについても、相当と考えるものがおおむね三分の一余りはあった。