フォロワーを第一に想定した発信についての問題
私が岡口氏について感心するのは、そのタフさ、打たれ強さだ。だからこそ裁判官にとどまりながら発信を続けていられるのだろう。そこは評価したい。ただ、ツイッターという、ファンをも含めた特定のフォロワーを第一に想定した発信は、その外にある世界、さまざまな他者の世界との緊張関係を欠きがちになることには、注意すべきではなかったかと思う。
岡口氏の書物等
最後に岡口氏の書物についてもふれておく。
『最高裁に告ぐ』の前半は、分限裁判についての岡口氏の準備書面的な内容をもう少し整理したほうがいいと思うが、全体としてみれば、一つの記録、ドキュメントとして価値があると思う。私自身やほかの元裁判官の体験に通じる部分もある。
しかし、裁判所の問題について記した後半については、それほど新しいことが書かれているとは思えず、また、読み終えて今一つ印象が定まりにくかった。その理由の一つは、そうした記述の基盤にあるべき岡口氏なりの司法観、訴訟観等、司法に関する彼なりのパースペクティヴやヴィジョンがはっきりしない、あまり伝わってこないことによるように思われる。
同じころに出た『裁判官は劣化しているのか』〔羽鳥書店〕は裁判官劣化の主な原因として飲み会によるコミュニケーション、伝承の機会がなくなったことや要件事実教育が行われなくなったことを挙げているが、これには、正直「そういう問題かな?」と首をかしげてしまう。それこそ裁判官が酒席で後輩たちに語って聞かせるような事柄であり、一冊の書物の伝えるべき主要なメッセージとしては弱いのではないか。叙述のスタイルも、岡口氏からの聴き取りを文章にして手を入れたような印象のもので、思考の重みや屈折があまり感じられない。みずからの考えを語るこうした書物を書ける機会は誰でも限られているのだから、一つ一つのチャンスをもっと大切にしてほしいと思う(なお、「要件事実」とは、民法等の「実体法」すなわち法律関係の内容を定める法の各部分を、いずれの当事者がそれを主張・立証しなければならないかを考えながら最小限の要素に分解、再構成したものであり、要件事実論は岡口氏の得意分野)。
また、岡口氏の法律書については、その書名からも明らかなように若手法律家のためのマニュアル的なものが中心であり、それもよいが、裁判官としての残された期間では、できれば、岡口氏なりの司法観、訴訟観等をも明らかにしたより本格的でオリジナルな研究書や体系書にも挑戦していただきたいものだと思う。
「俺を非難するように東京高裁に洗脳されている」
その後(本稿脱稿後)報道されたところによれば、岡口氏は、前記(2)の遺族について、「遺族の方々は俺を非難するように東京高裁に洗脳されている」旨をフェイスブックに書き込んだ(2019年11月)ことにより2020年8月26日に最高裁大法廷(全員一致)により分限裁判で再度の戒告処分を受けたという(『朝日新聞』同月27日記事等)。これについては、細かな事実関係、主張等が不明のため詳しい論評は控えるが、上の報道を見る限り、より問題が大きいように思われる。
【前編を読む】“判決はコピペ”“大事務所の弁護士に弱い”… 「サラリーマン感覚」の官僚裁判官はなぜ増えたのか