大圡 自分も最初に物資支援に入ったのは石巻の避難所だったんですけど、まだ行方不明者もいっぱいいた震災の1週間後だったから、すごい緊張感ありました。
震災後3週間で150トン、ヤンキーならではの行動力で被災地を支援
さだ 今回の本にも書いてあったけど、大圡君は震災当日から支援に向けて動きはじめたんでしょ?
大圡 自分は仕事先の青森県で被災して、そのままSNSで仲間に呼びかけて支援態勢に入ったんです。南相馬出身だから自分も被災者っちゃ被災者なんですけど、地元が大変なことになっているのを聞いて、とにかく何かできないかって一心で動いてましたね。
さだ 震災後3週間で150トンだっけ? 支援物資をそれだけ運んだってすごいことだよ。
大圡 そこは自分の力じゃなくて、音楽で繋がった仲間が想いを託してくれたからできたことなんです。元々仙台でヒップホップアーティストのマネージャーをやっていたんですけど、ヒップホップって地元を大事にする文化で、横の繋がりがすごいんです。だから震災直後から付き合いのあった全国のクラブやアパレルショップが支援物資の拠点になってくれたり、高速道路も電車も止まっていたから、アーティストや関係者がバトンのように物資やガソリンを託してくれたり。おかげで自分の地元の南相馬市にも自衛隊より早く物資を届けることができました。
さだ すごい行動力だよねえ。あれはヤンキーにしかできないよね。何も考えずに「行けー!」って動けちゃうのはヤンキーならではだよ! 僕は「音楽家にもなんかやれることあるかな」ってなったのは、6月ごろからだったな。6月9日に気仙沼に歌いに行ったんだよ。歌える場所は大島という離島の小学校しかなかったんだけど、あちこちから700人くらい集まってくれてね、『家族に乾杯』の主題歌になってる『Birthday』って曲を初めて歌ったの。気仙沼で書いた曲だから、早く里帰りさせたくて。
大圡 あの曲ってそんなストーリーがあったんですね!
さだ 気仙沼の大島で歌った帰りにも、「さだがなんか歌いに来たらしい」って聞きつけた気仙沼の人たちが港まで迎えに来てくれて、「来年は気仙沼に歌いに来てください!」って言われてね。あそこで心にさらに火が付いた。