この空間で、私だけが「間違っている」のだ、と感じた瞬間に込み上げてくるものは、いつも名状しがたい。自分が「いる」ことそのものの否定、ぎりぎりで尊厳を保ちたいが故に生じるやり場のない他者への怒り、自分はどこで間違ったのか、と考え続ける虚無の時間。他者の目に晒せば「なんてことのない話」でも、自身に刻まれた衝撃は何度でも蘇り、いつまでも生傷の感触で己を苛む。この複雑な痛みを、「恥」と呼ぶ。
「穴があったら入りたい」とは言うが、何かを間違えた瞬間に都合よく身を消してしまえる穴は現れない。不可逆な誤りを重ねるたび、消えられない身体だけがそこに取り残され、刺々しい風を全身に受ける。かくして立ち尽くす人のどうしようもない現実こそ、「恥さらし」なのである。
パウリーナ・フローレス『恥さらし』が描こうとしているのは、まさに「取り残された」記憶/誰かを「取り残してゆく」記憶の連なりであった。本書は九〇年代から現代にかけてのチリ・サンティアゴ地区を舞台にした短編集だ。ここに登場する人々は、みな肩を落としている。無力な子ども、諦めや虚脱の中にいる女性、失業した父親が幾度となく登場し、その一人一人がみな違った苦しみを抱えている。ここには当然ながら時代背景が絡む。当時のチリはまさに新自由主義進行の只中にあり、利益と速度を基準にして進む世界に、多くの人が「取り残された」。格差の固定、私的領域の負担増大は家族の破綻を招く。そしてその皺寄せを決定的に被るのは、女性や子どもだったのだ。
収録作から、「ナナおばさん」を推したい。親族への献身で一生を終えようとしている未婚の老婆・ナナおばさんと、主人公の交流・離別を描く一作である。
おばさんの本名はモニカだが、「ナナ(乳母)おばさん」としか呼ばれない。老いたおばさんは身内から厄介者扱いされており、主人公もおばさんの生き方には疑念を抱く。しかし一方で、家に馴染めずにいる主人公にとっておばさんと過ごす時間はかけがえのないものとなり、二人は長い間、沈黙の共有を楽しんだ。
だが時は流れる。主人公は大人になり、無言の家出を決意する。おばさんと過ごす最後の夜がやってくる。
ここでは全てが静謐に張り詰めている。おばさんを「黙って」置き去りにする罪悪感、それを「黙って」受け入れるナナおばさん。
わかっている、誰一人こうなりたくてこうなったわけではなかった。何も思い通りにはならなかったのだ。取り残された者の手には何もない。だが何もできないわけでもない。だからこそ無力な今が、苦しくて悔しくて恥ずかしいのだ。
取り残されて立ち尽くすとき、長い沈黙が来る。その一瞬一瞬が、個人の途方もない現実である。この重みを笑うことは、この世の誰にも許されていない。
Paulina Flores/1988年、チリ・サンティアゴ生まれ。チリ大学卒業後、高校で教鞭をとる。2014年、「恥さらし」でロベルト・ボラーニョ短編小説賞受賞、翌年同作を収録した本書を刊行。
たかしまりん/1995年、東京都生まれ。ライター。「文藝」や「ele-king」、新刊『ヒップホップ・アナムネーシス』にエッセイを寄稿。