『恋するアダム』(イアン・マキューアン 著/村松潔 訳)新潮クレスト・ブックス

 主人公の恋路を邪魔するAIアダムは、この物語の悪役といってもよい。だが彼がHAL9000やターミネーターと一線を画すのは、想い人の気を引こうとこんな俳句を詠んでしまうところだ。「彼女の愛に満ちたまなざしに/全宇宙が含まれている。/宇宙を愛そう!」

 海外で盛んに作られているHAIKUは、鈴木大拙が禅と結びつけて紹介したことから、日本人の考える自然観照をベースにしたものとは異なり、観念的、抽象的な内容が多い。それにしてもこのアダムの処女作はこちらが恥ずかしくなるが、驚くべきことに彼は「切字」という俳句独自の様式もマスターしようと張り切り、実際、作中で彼の作品はだんだん上達していく。なにより興味深いのは、その俳句論だ。アダムによれば「俳句は未来の文学形式」。なぜか。文学のほとんどは人間の愚かさ、残酷さに根差したものであり、やがて男女や機械の差もなくなった社会においては、誤解の文学は消え去り、祝福の文学である俳句だけが残るだろうという。人間のみならず、カエルやハエまでも対象として、命をいきいきと描き出す俳句の特質を、アダムは正確に捉えている。

 電子俳人アダムは、ヒロイン・ミランダに恋をし、アダムを買った主人公チャーリーは、人類初のコキュとなる。舞台は、一九八〇年代のイギリス。天才数学者アラン・チューリングが存命している平行世界で、彼の研究が高度AIの発明に結びついたという設定だ。平行世界といっても、暴力や差別などの問題は変わることがない。悪意の渦の中で、愛というよるべないものを強く握りしめていられるかを、登場人物たちは試されることになる。迫害された子供の魂を救えるのか? 友人の復讐のために世間を欺くことは許されないのか? 次々に押し寄せる難題の中で呟かれるアダムの愛に溢れた俳句は、彼の無垢な精神の象徴であると同時に、人類の究極の願望でもある。それは子どもが短冊に書くお願いごとにも似て、滑稽ながらも切実な響きを持っている。俳句が単なるガジェットではなく、主題に結びつくものとして扱われているのだ。

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 実は私たちの世界においても、俳句を詠むコンピューターはすでに生まれている。二〇二〇年の四月、コロナ禍の外出制限で無人となった銀座和光前の交差点を詠んだ「宙吊りの東京の空春の暮」。不安定な東京の現状を「宙吊り」と喝破したこの句を作ったのは、北海道大学の川村秀憲教授が開発した「AI一茶君」だ。

 一茶君の「春の暮」に終末観を感じ取るのも、アダムの愛の俳句に救済を感じるのも、人間次第。チューリングがAIについて語る言葉は重い。「わたしたちが自分たちを理解できないのだから、彼らはわたしたちを理解できないだろう」。AIの物語を読むことは、人間を知ることと同義なのだ。

Ian McEwan/1948年、英国・ハンプシャー生まれ。1976年『最初の恋、最後の儀式』でサマセット・モーム賞、98年『アムステルダム』でブッカー賞受賞。他に『贖罪』『憂鬱な10か月』等。
 

たかやなぎかつひろ/1980年、静岡県生まれ。俳人。句集に『未踏』『寒林』、評論集に『凜然たる青春』『芭蕉の一句』がある。

恋するアダム (新潮クレスト・ブックス)

イアン・マキューアン ,村松 潔

新潮社

2021年1月27日 発売