「ピッチの中では国籍も民族も問われない。うまいやつが王様なんだよ」と語っていたのは、Jリーグ・名古屋グランパスの元スカウトだった金益祚(キムイッチョ)だ。本田圭佑を高校時代から常に見守り続けた在日コリアン二世は、日本はもちろん、韓国・北朝鮮、ブラジルやヨーロッパにも幅広いネットワークを持つサッカー人だった。
その金益祚が“恩師”と慕っていたのが本書の主人公・金明植(キムミョンシク)だ。一九三八年・東京生まれ。べらんめえ調で「サッカーに政治や思想を持ち込んだりしちゃいけねぇよ」と啖呵を切る粋で元気な老人である。
その半生も波乱万丈。東京・枝川の朝鮮人集落で生まれ育ち、北朝鮮の政治思想や朝鮮総連の組織論理に翻弄されながらも、かつて「幻の日本一」と呼ばれた在日朝鮮蹴球団や東京朝鮮高校サッカー部に黄金時代をもたらした。小柄だがブレザー姿に黒いサングラスでサッカー指導するカリスマ性が強烈で、当時の朝高生たちから恐れられる存在だった(筆者もその一人だ)。
尤も、昭和の時代に青春期を過ごした者たちが朝鮮高校と聞いて連想するのは、「喧嘩とサッカー」だろう。本書では、各種学校扱いゆえ長らく公式戦に出場できずとも(九四年解禁)、朝鮮高校サッカー部が強かった理由が、詳細に綴られている。金明植が北朝鮮サッカー界を経由して当時としては珍しい東欧サッカーのエッセンスを習得・実践していく過程はその情景が浮かんでくるほどだが、個人的に興味深かったのは対峙する側だった日本の高校サッカー界の名将たちのインタビュー集だ。
「帝京が強かった理由? 朝高に金明植さんがいたっていうこともある」(古沼貞雄)、「サッカーだけではなく言葉まで真似た」(本田裕一郎)といった証言は、国籍や組織に縛られず親交を深めた人間同士の交流の素晴らしさに改めて気づかせてくれる。本書は日本サッカー裏面史という領域にとどまらず、いよいよ多文化共生時代を迎えた日本社会への貴重なメッセージが込められているような気がしてならない。
惜しむらくは東京朝鮮高校サッカー部監督として、前出の日本人指導者たちとの交流をも恩師から受け継いだ金益祚が登場しなかったことだ。ただ、彼はガンを患い、享年五十八で他界しているだけにそれも仕方ない。「幻の日本一なんて虚しい自己満足に過ぎない」と毒づくも「それでも日本サッカーの一部として記憶されて光栄」と嬉しそうだった“伝説のスカウト”は、本書にどんな感想を抱いただろうか。そんな読後感が過(よぎ)る一冊だった。
きむらゆきひこ/1962年愛知県生まれ。中央大学卒業。ノンフィクションライター。東欧やアジアの民族問題を中心に取材、執筆活動を続ける。2005年、『オシムの言葉』でミズノスポーツライター賞受賞。著書に『蹴る群れ』、『徳は孤ならず』など多数。
シン・ムグァン/1971年生まれ。ノンフィクションライター。著書に『ヒディンク・コリアの真実』、『祖国と母国とフットボール』など。