近年のトランプ政権下で、連邦による死刑が復活するなどの変化が起こったものの、陪審制を布くアメリカではそれまで、歴史的に死刑が回避される方向に傾いていた。そこには、社会のしくみそのものから生じる、死刑を取り巻く残酷性があった。
ジャーナリスト・青沼陽一郎氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)
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陪審制を布くアメリカでは、州によっても違うが、歴史的に死刑が回避される方向に傾いている。
いくつか理由が挙げられるが、そのうちのひとつには陪審制に冤罪が多かったこともある。
その有名な例が、バラク・オバマ大統領が上院議員として選出されていた地元イリノイ州のケースだった。
1998年9月、いままさに死刑が執行されようとしていた黒人男性が直前になって知的障害を理由に一時停止され、その4カ月後に事件の真犯人が明らかになるという、信じられない出来事があった。
ドラマチックといえば、聞こえはいいが、真犯人が見つからなければ、この囚人は無実の罪で殺されるところだった。まさしく冤罪だった。
この事態に怖くなったのが、執行書にサインをする州知事だった。それから2000年1月までに計13人の死刑囚がDNA鑑定などによって冤罪であることが判明している。当時のジョージ・ライアン知事は死刑の執行を即時停止し、2003年の任期満了の退任に伴ってはイリノイ州の167名の死刑確定者のうちの164名を仮釈放無しの終身刑に、残る3名を有期刑に減刑する措置をとった。「死刑を宣告されたすべての者が本当に罪を犯したと確信できるまで」とした死刑執行停止の措置を解除するまでに至らず、「州の司法システムには問題がある」としたことが理由だった。
つまり、潜在的に現行の裁判制度では冤罪を生む可能性があると認めたことになる。
だから、市民に有罪無罪の判断をゆだねる陪審制には問題が多く、それこそ日本でも裁判員制度の導入、裁決権を持つ一般市民の司法への参加には反対の声もあがっていた。
しかし、死刑を廃止する本当のところは、その残酷さにある。──そういうと、日本の死刑反対論者や人権派と称する輩が、それみたことか、人を殺すことそのものが残酷なのだ、と直情的に主張するところと重なってしまいそうだが、そんな安易で安直なものではない。アメリカの社会制度そのものに、死刑を取り巻く残酷性がある。