松本明子・松村邦洋の「アポなし」取材や猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」などで世間を騒がせ続け、番組の存在そのものが事件であり、スキャンダルだった。そんな『電波少年』シリーズ(日本テレビ系1992-2003年)のプロデューサーで“T部長”として自らも出演した土屋敏男氏が今年、新番組『電波少年W~あなたのテレビの記憶を集めた~い!~』をスタートさせた。

 では、土屋氏にとって『電波少年』とは何だったのか。『電波少年W』が謳う「テレビの記憶を集める」とはどういうことか。人の心を揺さぶるコンテンツはどのように生み出されるのか――そんな“テレビの本質”について、同氏に話を聞いた。(全2回の1回め/#2を読む)

プロデューサー“T部長”こと土屋敏男氏

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アポなしで涙をうかべた松本明子

――『電波少年』シリーズは『進め!電波少年』として1992年に始まります。

『電波少年』は10年以上続くことになりますけど、実は最初は3ヶ月の“つなぎ番組”でした。だから会社からは「好きにやっていいよ」と言われていたんです。そのときに思ったのは、「他局の人気番組をパクったような番組だけはやりたくない。今までのテレビにないことをやる」ということでした。

 当時はなにしろフジテレビの全盛期で、日本テレビが非常にダメな時期ですから、有名タレントが出てくれないんですよ。それで、次に来るタレントとして事務所が推している松本明子と松村邦洋でやるしかなかった。当時は2人ともまだ売れていなかったから、時間があった。これが幸運でしたね。

――幸運というと?

 第1回の放送でのことですが、松本明子が憧れの人に会う企画で、元バスケ選手で227cmの岡山(恭崇)さんのところに行くんです。実は最初、勤務先の住友金属の広報にいって、ちゃんと取材のアポイントを取ったんですよ。ところがそれが前日になって「やっぱりダメです」って、広報に断られた。「岡山さんの机は普通の社員と同じものなのか」をこっそり検証しに行くという企画だったんですけど、それがバレたのかな(笑)。

 ところが松本明子も暇だったから、「会社の前でずっと張っていれば、岡山さんは大きいから明らかにわかるだろう」って言って、朝からロケに行かせたんです。その日、岡山さんはずっと外回りしていて、なかなか現れないんだけど、夕方になって会社に戻ってきた。それで松本明子を「日本一高い『高い高~い』」までしてくれた。そうしたら松本明子が涙をうかべて泣いているんですよ。「これだ!」と思いましたね。やっぱりアポイントがあったらダメなんだと。

 

――『電波少年』の代名詞「アポなし」誕生の瞬間ですね。

 そう。広報に電話してアポをとって、それから訪問して、みんなで打ち合わせして、はい撮りましょう…と、テレビがいつもやっているロケの進め方をしていたら、あそこで松本明子は泣いたりはしなかっただろうと思ったんですね。