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 両親は足のことで私の将来が心配で、女流プロになれるのならばそれが良いと考えたようでした。佐伯先生と両親の話し合いで育成会入りは決まり、私がプロになりたいと言ったわけではありません。ただ、将棋を指す女性が少なかったので、育成会で女性同士将棋を指せるのは楽しいことでした。勝負の場ではありましたが、みんな仲が良かった。当時の育成会幹事は石田和雄九段、奨励会員だった弟子の勝又清和七段が手伝っていました。お昼休みには、石田先生と10人程度だった育成会の皆でお寿司を食べに行きました。カウンターのお寿司なんて初めてで、とても魅力的でした。

 当時の育成会は1年かけて総当たりを3回ずつ。私は小6、中1で3位。道場四段になっていた中2で2位になり、中3になる前に女流棋士になることができました。育成会の制度は何度も変わっていて、その時は2位までが「仮免許」ではない女流棋士2級になることができたのです。両親は足に大きな傷と障害がある娘に「手に職」がついたことを喜び、私は両親を安心させることができたことを嬉しく思っていました。いろいろな選択肢から女流棋士という道を選んだというより、目の前にはそれしかなかったという感じです。

 

実力よりも容姿が注目され

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 女流棋士デビューする前から、その美少女ぶりには注目が集まっていた。女流育成会員だった中1のときに「週刊将棋」は制服姿の写真を大きく使い、裏1面に特集を掲載したほどだ。女流棋士になると、将棋の内容より「クリっとした可愛い目」だの「さわやかな和スマイル」だの容姿を褒める記事が続いた。そんな中で感じた苦しさについて聞いてみた。

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 女流棋士になると仕事の依頼をたくさんいただきました。プロになったのだから、時間が空いている限りは断ってはいけないと思いこんでいて、地方の将棋まつりや解説会の聞き手など、できる限り引き受け、夏休みはスケジュールがいっぱいでした。そうなると「和ちゃんだけ目立って」とかいろいろ言われてしまうわけです。

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「私が目立ちたくて仕事をしているわけじゃない!」とか内心、不満でした。今「将棋の森」を経営して、イベントの裏方をやることも多いのですが、私は裏方のほうが好きです。

 仕事では皆さんに可愛がっていただき、良い経験になったのですが、打ち上げで、酔っぱらった記者に「和ちゃんは可愛い! タイトルなんて取れない。でも可愛ければそれでいいの!」なんて言われたこともありました。その記者の方だけでなく、ルックスにしか期待されてないのかと感じることは多々あり「注目すべきはそこじゃないのでは」「もっと人間を見て欲しい」と思っていました。

2005年に文庫版が出版された著作『女流棋士』(講談社)

 でも、目立つ仕事をするからには、きちんと役割を果たさなければいけないという気持ちをすごく強く持って、言動も理想的な女流棋士であろうとしていました。今はもっと、いい加減に生きているのですが、当時はそれができなくて。そんなことから心のバランスを崩し、自律神経失調症になって、対局前夜は猛烈な吐き気で眠れず、体重も減り、血尿が出たりと、体調の悪い状態が何年も続きました。