「暗黒時代」後もコミックソングを手がけた
“暗黒時代”を潜り抜けた大瀧は、80年代初めに『A LONG VACATION』をヒットさせると、元バンド仲間で作詞家となった松本隆の求めもあり、アイドルなどほかの歌手にも多くの楽曲を提供することになる。そのなかで、コミックソングもたびたび手がけている。
漫才ブームから生まれたバラエティ番組『オレたちひょうきん族』(1981年スタート)では人気コンビがばらばらに出演することになるが、そのうち漫才では相手にうなずくばかりの3人――ツービートのビートきよし、B&Bの島田洋八、紳助・竜介の松本竜介によるユニット「うなずきトリオ」のために、大瀧は「うなずきマーチ」という曲を提供し、スマッシュヒットとなる。また、同じく『ひょうきん族』でブレイクした山田邦子は、かつて『LET'S ONDO AGAIN』に収録された「アン・アン小唄」を、大瀧のプロデュースにより「邦子のアンアン小唄」というタイトルでカバーしている。
ビートルズを音頭にした「イエロー・サブマリン音頭」
1982年には、民謡歌手の金沢明子の歌う「イエロー・サブマリン音頭」をプロデュースした。ビートルズの「イエロー・サブマリン」を音頭にするという企画は、当時、ビクターレコードのディレクターだった川原伸司の発案から生まれ、日本語訳詞を松本隆が、編曲をクレージー・キャッツのヒット曲の大半を手がけた作曲家の萩原哲晶が担当した。
大瀧はクレージー・サウンドを介して多大な影響を受けた萩原と、その前年の1981年にFMラジオの番組で知り合った。ここから萩原と組んでタモリのアルバムを制作する企画が持ち上がり、録音まで進んだものの、諸事情で頓挫する。しかし、これをきっかけにクレージー・サウンドと「イエロー・サブマリン」を合体させるアイデアを思いついたという(※2)。
萩原哲晶は「イエロー・サブマリン音頭」リリースの翌々年に亡くなり、これが遺作となる。大瀧は1986年にクレージー・キャッツのメンバーが久々に集まって収録したシングル「実年行進曲」を手がけ、萩原にオマージュを込めた楽曲に仕立て上げた。これと前後して彼は、クレージー・キャッツのシングル盤を復刻したり、戦後活躍したボードビリアンのトニー谷の曲を集めたアルバムをプロデュースするなど、往年のコミックソングの再評価にも力を入れている。
90年代に入るとクレージーの中心メンバーだった植木等が再ブレイクを果たすが、そこにはそれまで大瀧が地道に続けてきた活動によるところも大きいはずだ。その大瀧も90年代には、不遇だった70年代の作品が発掘されるなど再評価が進むことになる。その立役者の一人として、『ちびまる子ちゃん』で知られるマンガ家のさくらももこが果たした役割も見逃せない。