「体を張って日本人のやらないことをやった」
岡本は昭和26年生まれの65歳(当時)、川崎の桜本で生まれた在日韓国人二世である。
実を言えば、寿町のドヤのオーナーの9割以上が在日韓国・朝鮮人によって占められており、寿町のドヤが玄関で靴を脱いでから部屋へ上がる和風旅館方式ではなく、靴のまま部屋まで行けるスタイルなのは、オーナーの多くが朝鮮人だからだという説がある。
岡本の両親は在日韓国人の一世で、いつか韓国に戻る夢を持っていた。だから岡本を朝鮮学校に入学させた。
「韓国に帰ったとき、朝鮮語が分からないと惨めだからと言ってね……。昔のこの辺りは臭い、汚い、危険だったから、日本人は(ドヤの経営を)やらなかったよね。韓国人は学歴がないし、手に職をつけるのも難しいから、体を張って日本人のやらないことをやったんですよ。それが簡宿(ドヤ)の始まりです。簡宿は、ポンとここにあるわけじゃないんですよ」
岡本にも学歴がなかった。なぜなら朝鮮学校は各種学校扱いだから、高級部(高等学校に相当)を卒業しても高卒の資格がない。岡本は高級部を卒業しているが、日本の法律では無学歴なのである。当然のごとく就職の口は乏しく、親戚が経営している土木会社の世話になるしかなかった。
一般に在日韓国人は結束力が強いといわれるが、その根には学歴の問題があると岡本は言う。学歴がないから親戚や知人を頼って仕事を探さざるを得ないケースが多く、結果、在日韓国人同士の繋がりは、好むと好まざるとにかかわらず強固なものになる。
親戚の土木会社には跡取り息子がいたから、岡本は35歳のとき、その会社を去ることを自ら決断した。
「甘えるのは嫌いだったし、世代交代の問題で揉めるのも嫌だったからね」
その後は、長距離トラックの運転手をやり、レンタルビデオ店の管理職をやり、ほとんど自宅に帰ることなく働き詰めに働いた。ふたりの子供は朝鮮学校ではなく、都内の私立に通わせた。莫大な教育費をかけた甲斐あって、男の子は早稲田大学に、女の子は東京学芸大学に進学した。