レインボーブリッヂ・小坂浩彰の計画
02年9月17日の第一次小泉訪朝により、北朝鮮総書記の金正日が13人の日本人拉致を認めた。あのショッキングな出来事とともに、戦後長らく氷のように固まり、閉ざされていた日朝双方の交流が動き始める。この年の10月15日には、拉致被害者のうち、北朝鮮政府が生存を認めた5人の帰国が実現した。戦後途絶えてきた日朝国交交渉が急に盛んになり、両国の国交回復機運が高まっていった。
そして、国交回復後の開発利権を狙い、政官業各界のさまざまな思惑が渦巻いていく。水谷建設の水谷も、利権狙いに走りだした一人だ。北朝鮮に対する食いこみ方は、まごついていた日本の政府関係者や産業界に比べ、突出して早く深かった。
胡散臭さを承知で乗った
その水谷功が北朝鮮に爪を伸ばすにあたり、レインボーブリッヂの小坂が一定の役割を果たしている。水谷建設の狙いを解き明かす前に、やはり小坂の動きに触れなければならない。水谷功の北朝鮮におけるブレーンが話す。
「きっかけは、小坂浩彰からもたらされた話でした。レインボーブリッヂの事務局長をしていた小坂は、石油や石炭の代替燃料として使える廃タイヤチップを北朝鮮に寄付したおかげで、北の政府から絶大な信頼を得ている、との触れ込みで、水谷会長に接近してきた。建設業者にとって日本国内の公共工事は、そろそろ頭打ちになると見られていた。そんな折から、会長が小坂の話に乗ったのです。もちろんきな臭い話なのは承知のうえですが、その分を差し引いても北朝鮮には魅力がある。ゼネコン業界にとって未開の地でもあった。重機土工の業者には国内工事のライバルが多いが、向こうで足場を固めれば、独壇場になる。そのための橋頭堡を築こうと、敢えて彼に乗ったのです」
実際、レインボーブリッヂの小坂の評判はあまりよくはなかった。だが、政官界の裏工作にはそんな胡散臭さは付きものでもある。水谷はそれを熟知しているだけに、むしろ小坂の話に魅力を感じたのかもしれない。政界では、この手のいわくありげな話で、意外な関係が浮かぶことがままある。
ちなみに、小坂が最初にクローズアップされた茨城県日立港沖の輸送船座礁事件では、のちに船の積み荷の出どころも話題になる。問題の廃タイヤチップを提供していたのが、群馬県の産廃処理業者「明輪」だ。実はこの産廃業者が、小泉元首相の支援者だったと判明する。日朝の関係が微妙な折も折、この会社が小泉後援会に政治献金していたのだから、騒ぎになるのは無理もなかった。そのうえ小泉事務所の辣腕秘書、飯島勲の息子が、明輪の関係団体に籍を置いていた。