入所者名指し「殺さないとな」
カチッ。
午前2時17分ごろだった。東居住棟1階の女性専用「にじホーム」と西居住棟1階の男性専用「つばさホーム」をつなぐ渡り廊下の扉の鍵が開く音が聞こえた。
こんな時間に誰だろう。鍵は職員しか持っていない。確認するために扉の方へ歩いていくと、廊下に伸びる人影がどんどんこちらに近づいてくる。支援員室と庭の外灯の光がわずかに差し込む薄暗さの中で、「つばさホーム」の男性職員は目をこらした。目の前まで来てようやく分かった。5カ月ほど前に園を退職した植松だった。
いつもそうだったように、愛想笑いのような半笑いを浮かべていた。植松は肩にかけていたバッグを下ろし、職員に向かって言った。
「鍛えておけって言ったろ」
はっとした。植松がまだ園で働いていたころ、四肢不自由の入所者の入浴介助を一緒にしたことがあった。その時、植松から「もう少し体を鍛えておいた方がいい」と言われたことを思い出した。
植松は職員の手をつかんで壁際に立たせ、目の前で白くて細い棒状のものを左右に振りながら、「もう殺しているから」と言った。すぐには言葉の意味が理解できなかった。だが、廊下に黒い点がぽつぽつと続いているのが目に入り、植松の足元で途絶えているのを見て全てを察した。
手には包丁が握られていた。「縛るから」。植松がそう言うとすぐに手首をきつく締め付けられる感覚があった。その瞬間、細い棒状のものは結束バンドだったと理解した。職員を手すりに縛り終えると、植松は「これで逃げられたら、君はすごい」と笑った。「自分の塀の中の暮らしはこれから長いと思うけど、まぁお互い、いい思い出にしようよ」と続けた。
その後、植松は近くの部屋を指差し、「ここ誰?どんな人」と聞いた。職員が「目が見えない、耳も聞こえない人です」と答えると、「分かった」と返事をして包丁を握りしめたまま部屋の中に入っていった。すぐに、布団の上に人を落としたような「ばさっ」という音が3回ほど響いた。直後、「うう、うう」という苦しそうなうめき声が聞こえてきた。
「あいつ、どこにいる?わっと怒るやつ。あいつは殺さないとな」。部屋から出てきた植松はそう言って、早足で別の部屋へ向かった。かつて、「つばさホーム」で支援をしていた時期があった。
しばらくして、「うわあ、あー」という悲鳴が何度か聞こえた。不明瞭な発音から植松が名指しした入所者だとすぐに分かった。拘束されている職員のところまで戻ってくると、植松は言った。「よかった、ちゃんといるね。いなかったらどうしようかと思った」
「すぐ来て。やばい」
植松が部屋を回って襲撃を繰り返している隙を見て、職員はポケットにあったスマートフォンから園近くの職員寮に住む同僚にLINEでメッセージを送っていた。
「すぐ来て。やばい」。午前2時21分ごろだった。
職員は緊迫した状況下でSOSのサインを出し続けた。同僚の携帯電話には最初のメッセージから10分後の午前2時分ごろに「わ」、その2分後に「きたかあさはらう」。続けて「てんさく」という意味不明のメッセージが送られてきた。職員は靴と靴下を脱ぎ、床に落としたスマートフォンに足の指で「けいさつ」と打とうとしていた。午前2時38分、異変を感じ取った同僚による最初の110番通報につながった。