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テレビ以外にも活躍の場を広げた近年

 こうしてバラエティやコメディアンの地位を一気に押し上げた萩本だが、1985年から87年のあいだにレギュラー番組のほとんどを終了させた。本人はその理由を《もう、朝から夜中まで、テレビ、テレビでしょ。テレビ人間っていうのじゃなくて“テレビ漬け人間”でしょ。ああ、これを死ぬまでやったら、絶対にそのうちインチキをする……。それで、45歳でね、ひとまず区切りをつけちゃったわけ》と後年明かしている(※9)。

2015年には74歳で駒澤大学に入学 ©文藝春秋

 時期的にはちょうど、タモリ、ビートたけし、明石家さんま、とんねるずなど、お笑いの世界に続々と新たな才能が現れ、それぞれ冠番組を持ってしのぎをけずるようになっていた頃だ。そのさなかに萩本がテレビの第一線から退いたことは、世代交代をはっきりと印象づけた。

 その後、萩本は映画や舞台に活路を見出し、さらには社会人野球チームの監督としても注目された。2015年には、74歳にして駒澤大学に入学して話題を呼ぶ。しかし一昨年には大学を自主中退した。昨年、テレビディレクター出身の評論家・田原総一朗との対談でその理由を訊かれ、彼は次のように答えた。

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2005年には社会人野球チーム『茨城ゴールデンゴールズ』も創設 ©文藝春秋

「人生の最後はお笑いで終わりたい」

《僕の芸能生活は「コント55号」で始まったから、やっぱり人生の最後はお笑いで終わりたいと思ったんだよね。そうすると、八十歳になったらもう体が動かないだろうと。お笑いに全力投球するには、あと二年くらいしかないことに気づいたんです。最後に「新しい笑い」を作ってみたくなったんですよね》(※10)

 すでにいくつか試みを行なっているという。たとえば、小さな劇場で何も出し物は決めず、50人くらいの観客を舞台に上げて人生を語らせたことがあった。《そこで想像がつかない話が出てきたり、ハプニングが起こると、面白い》と萩本は語るが(※10)、それは彼がすでにテレビでやってきたことである。まさに彼の笑いは「素人いじり」に始まり、「素人いじり」に終わるのかもしれない。いよいよ80歳となった萩本が、どんなふうに自らの芸を集大成してみせるのか、楽しみである。

※1 『週刊現代』2014年5月31日号
※2 『悪いのはみんな萩本欽一である』(フジテレビ、2010年3月27日放送)
※3 井上ひさし『完本 ベストセラーの戦後史』(文春学藝ライブラリー、2014年)
※4 『週刊現代』2012年5月5・12日号
※5 『文藝春秋』2012年3月号
※6 『現代』1998年4月号
※7 『サンデー毎日』2016年6月5日号
※8 『サンデー毎日』2016年6月12日号
※9 サライ編集部・編『昭和のテレビ王』(小学館eBooks、2017年)
※10 『文藝春秋』2020年2月号