翌5月16日付朝刊では、毎日も社会面トップで「バラバラ事件の身元判明? 志村署伊藤巡査と推定」と報じたが、朝日は同じ社会面トップだったものの「顔に六つのホクロ」「大頭で廿(二十)代の男」などと報道。わずかにベタ(見出し1段)記事で「志村署員が首実検」と書いただけ。「いまのところ、伊藤巡査説が五分というところだ」という志村署長の談話を載せた。
素行の悪い警官だった被害者
同日付夕刊では、朝日も「バラバラ事件の身元判(わか)る」と報道。それは、16日朝、両腕が胴体より7キロ上流で発見されて指紋照合で伊藤巡査と一致したためだった。
浦島捜査一課長の手記によれば、1万人に約800人しかいない「双胎蹄状紋」という特異指紋だった。さらに朝日は、夫の行方不明などをめぐる冨美子の対応に不審があるとして、3段見出しで「妻の身辺に疑惑」と報じた。毎日も「妻めぐり男出入り 痴情、怨恨説濃くなる」の見出しを立て、伊藤巡査の経歴や身辺について伝えている。要約すれば――。
▽経歴 1924年6月、山形県置賜郡豊川村(現飯豊町)で生まれ、1941年から徴用工として川崎市の日本光学で勤務。1944年、召集され、復員後は仙台市で古物商の父を手伝っていたが、1947年上京。浅草で露天商をして「テキ屋」仲間と付き合った後、1948年に警視庁巡査を拝命し、志村署勤務に。勤務成績は1950年は普通だったが、1951年は低下。性格は荒っぽい方だった。1951年4月、義理のいとこ(義母のめい)の冨美子と結婚したが、結婚後も女遊びを続け、家庭生活は円満な方ではなかった。
▽金銭、女性関係 大酒飲みで、勤務が済むとすぐ酒に走り、飲むと暴れだし、誰彼の見境なしに突っかかっていくというふうで、数軒の飲み屋でけんかをするなど、素行が悪かった。家庭は火の車で借金が絶えず、四方八方から手当たり次第に借りて急場をしのいでいた。判明しただけで約7万円(現在の約47万円)の借金がある。非番の日などよく行き先も告げず外出していたが、この1年間、外から訪ねてきた友人はほとんどいない。冨美子と結婚後は板橋区志村蓮根町1457の会社員方2階に間借りしていた。妻の冨美子は結婚直前、大阪市の大宮小から志村第三小に転勤。彼女をめぐっても大阪時代から男出入りがあったと伝えられている。
記事を読めば、疑いが妻にかかっていることは明白だが、読売は同じ日付の紙面でさらに先を行った。「早くも容疑者浮ぶ 妻女を召喚、急轉(転)解決か」の見出しで、捜査本部が拠点を志村署に移し、冨美子を重要参考人として召喚。伊藤巡査の失踪前後の足どり、素行、家庭事情、交友関係について徹底捜査を開始した、と報じた。
「被害者が現職の巡査であることから、捜査本部はにわかに色めき立った」
「警視庁史 昭和中編(上)」は「被害者が現職の巡査であることから、捜査本部はにわかに色めき立った」と書いている。同書は伊藤巡査の行方不明に関する動きをまとめている。