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まさに“荒れ川”だった荒川

凶器の捜索に群がる野次馬の群れ(「サン写真新聞」)

 埼玉県・秩父山地に流れを発して東京湾に注ぐ荒川は名前通りの“荒れ川”で、江戸時代から明治の終わりまでの約300年間に起こした洪水は113回。特に1907(明治40)年と1910(明治43)年の関東大水害では、下流の隅田川があふれ、江東デルタ地帯に大きな被害を出した。

 明治政府は大改修を計画。北区の岩淵鉄橋(現新荒川大橋)から東京湾まで約23キロにわたって新たに川を掘削した。これが荒川放水路(現在は法律改正で荒川)だ。1911年から19年をかけた難工事で、工費は3134万円(現在の約688億円)に上った(本間清利「利根川」)。

 それがいかに待望された工事だったかが分かるのは、1924年(大正13)年10月13日付東京朝日朝刊社会面トップの記事。「大水害から 救は(わ)るゝ(る)東京 加藤(高明)首相以下參(参)列し 昨日通水式擧(挙)行の 荒川放水路」という見出しでこう書いている。

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「政府が帝都幾十万市民の水害を救うべく荒川下流の改修工事を企画してから十有四年、工費二千五百有余万円、三百有余万の延べ人員を使役してようやく竣工した岩淵、川口両町地先より海に至る区間約6里(24キロ)、川幅250間(約455メートル)ないし320間(約582メートル)の放水路開通式は12日午前10時から岩淵水門右岸の現場において挙行された」

通水式挙行を報じる朝日

釣りやザリガニ採りも行われていた当時の現場

 荒川放水路の風景を愛したのは作家の永井荷風で、何度も訪れ、「放水路」という随筆も書いている。その荒川放水路には戦後間もないころまで、子どもたち向けの水泳の教習場や古式水泳の水練場がいくつもあった。絹田幸恵「荒川放水路物語」(1990年)によれば、その数計14カ所。

 その1つの「日の丸プール」について同書は、「今の扇橋(扇大橋=事件当時はまだ架かっていなかった)の下にあった天然プールで」「(古式泳法水練場で)向井流の泳法だった」と記述。近くの子どもたちは「夏は毎日のようにおにぎりの弁当を持ち」「(午前)10時ごろから(午後)4時ごろまで」泳いでいたと書いている。

荒川放水路(「科学画報復刊」より)

 戦後、川の汚染がひどくなって廃止されたが、事件のころは夏を中心に、近所の人が釣りをしたり、子どもたちがザリガニ採りをするなどしていたようだ。