大阪の裕福な問屋の娘だった冨美子…ラブレターに書かれた言葉
大林茂喜「荒川放水路バラバラ事件」によれば、冨美子は大阪の裕福な綿問屋に生まれ、兄と弟に挟まれ、母鹿の愛情を受けて何不自由なく成長。1944年に高等女学校を卒業した。
空襲が激しくなると、家は店を閉め、父の郷里の山形県米沢市に疎開。そのころ、伊藤忠夫と知り合った。戦争で家は財産を失い、彼女は山形の教員養成所を出て1948年、単身大阪に戻って小学校教師に。忠夫との関係は最後は悲惨だったが、交際中はお互いに愛情はあったようだ。
同記事には、捜査本部が押収した冨美子から忠夫へのラブレターの内容も紹介されている。
「忠夫さん、危ない所には絶対に行かないでね。もし警察官の名の下にそうした行動をとらねばならない時は、弱虫のようですけれど、巡査を辞めてください。私はどんなことをしても、離れるのはいや。私を泣かせないでね。私を置いてどこへもいらっしゃらないとは信じていますが、離れないでね。冨美子。私の大事な忠夫さまへ」
「私がやりました」「母は何も知らないことです」
5月17日、取り調べに冨美子は涙を浮かべながら「お手数をかけて申し訳ありません。私がやりました」と認めた。その場に泣き伏し「母は何も知らないことです」と訴えた(=「警視庁史 昭和中編(上)」)。
その母もその日に逮捕された。当時、警視庁鑑識課係長だった岩田政義警部の著書「鑑識捜査三十五年」は、犯行現場の伊藤巡査宅に臨場したときのことを書いている。
「階段を上ると6畳と4畳半(8畳と4畳の誤り)の間が続いている。6畳の奥、壁際に布団が敷かれてあって、ばあさんが壁の方を向いて寝ている。その枕元に17、8歳(実際は14歳)の(冨美子の)弟が座り……」「ばあさんがこちらを向いた。顔はやつれ青白く、白髪交じりのざんばら髪ではい出し『だんな!』と呼び掛けた。枕元に座っていた弟は私の後ろに回った」「『おばあさん、体に障るから、じっと寝ていなさい』とできるだけやさしく言った」「間もなく、ばあさんは共犯として逮捕され、私にペコンと頭を下げて引かれて行った。その後ろ姿を見送り、ああ、あの時、誰もいない所で犯行を自供したかったのに違いない。体を引きずって近寄ってきたのは、私にすがりたい気持ちだったのだろう。その心情を見抜けなかったことが残念でならなかった」。