再び「警視庁史 昭和中編(上)」に戻ろう。
その夜、持ち出して捨てるつもりだったが、弟が帰ってきたため、慌てて死体を押し入れに隠した。翌9日、冨美子は学校を休み、血の付いた竹行李を小さく刻んでコンロで焼き捨てた。
夕方、弟を再び兄の家に使いにやり、死体を捨てる場所を新荒川大橋にして、赤羽駅前で待ち合わせることなどを鹿と打ち合わせた。
午後8時ごろ、鹿が首と両腕を風呂敷包みにして持ち出し、次に冨美子が胴体と両足を自転車に積んで家を出た。だが、重すぎて自転車のハンドルがとられて進めない。
再び両足を押し入れに隠し、胴体とナタと出刃包丁を積んで、午後9時ごろ、新荒川大橋に着き、橋上から川に投げ捨てた。そのとき、遠くに人影が見えたので慌てて逃げ、赤羽駅で鹿から首と両腕を受け取った。また新荒川大橋まで走らせて、人影のないのを確かめ、胴体を捨てたあたりに投げ捨てて午後10時ごろ、帰宅した。
弟が寝静まるのを待って午前1時ごろ、残った両足と血の付いたボロきれの包みを自転車に積み、今度は戸田橋に出て川の真ん中に投げ捨てた。
「僕は先生が好きでした」紙面に載った男子児童の談話
「教師の妻が警官の夫を殺害してバラバラに」という事件の反響は大きかった。
5月17日付読売夕刊は、冨美子が勤務していた志村第三小でこの朝、校長が児童に事件のことを説明。「動揺しないように」話したことを報じ、冨美子に対して「僕は先生が好きでした」という担任の1年3組の男子児童の談話を載せた。3紙の1面コラムも取り上げた。
5月17日付読売「編集手帳」はこう嘆いた。「被害者の伊藤巡査には気の毒だが、このようなバクチの好きな人物が警察官として勤務していた、という事実は私たちをあぜんとさせる」「容疑者がその妻だったということにも驚かざるを得ない。しかも、彼女が小学校の教員であったということにおいておや。殺人容疑者は、はたしてどんな教え方を子どもたちにしていたのかと思うと、これまたゾッとしないではおられない」。5月18日付毎日「余録」も同様の感想を述べ、「先生は先生としての使命と職業的責任を自覚してもらいたい」と求めた。
同じ5月18日付朝日「天声人語」は「終戦後の混乱期の急場しのぎに、警視庁では身元調べも不備なままに9000名を採用したが、その中には悪質な経歴の持ち主がだいぶいて、現職警官の破廉恥な非行が続出したので、約1000余名の不良警官を解職したことがあった」と書いた。
時事通信発行の「時事解説版」1952年5月31日号にもこうある。「冨美子は6・3制の敷かれた(昭和)23(1948)年、初めて仮教員になっている。この年は教員不足で、資格の足らない者も大量に採用された年で、6・3教員の中には、犯人の紛れ込むスキもあったと都教育庁が言っている。ところが、殺された伊藤忠夫も素行上あまりかんばしくなかったようで、彼もまた23年巡査大増員の際に採用になった23年組の1人。警視庁でも、事故を起こすのはこの組に決まっているとこぼしているというが、そのせいか、世評は被害者に対してもあまりよくはない」。
以後も新聞は冨美子の自供内容や弟に焦点を当てた記事、冨美子と弟のそれぞれの「手記」などを掲載。5月19日付朝日朝刊で、冨美子は記者の質問への回答で「結局はこうならなければ、私たち夫婦の間はおさまらなかったのだという気持ちと、とんだことをしたという気持ちが入り交じって――」と語った。18日午後には両足も発見されて全身がそろった。