「ええ。でも(関西将棋会館が移転する)JR高槻駅の周辺は、ほとんど歩いたことがなくて……」
阪急高槻駅周辺には昔ながらの商店街が広がるが、少し北にあるJRの駅周辺は大きなビルなどが建ち並ぶ。豊島は嬉しいような、不安そうな表情だ。初めて師匠の家へ行ったときも、こんな表情をしていたんだろうか。
新天地で、豊島は何をするのだろう? タイトルへの呪縛から解放された豊島は……。
ふと、持参したけれど使うことはなかった自著『りゅうおうのおしごと!』が目に入った。あとがきに豊島のことを書いた2巻。表紙には、主人公の竜王が弟子に取る、2人の少女の姿。
思わずこう尋ねていた。
「将来的には弟子を取ったり……?」
答えを期待して投げかけた言葉ではなかったが……意外にも、豊島は即答した。
「そうですね。自分のやっている『強くなるメソッド』が確立できたら、いつか発表したいという気持ちはあります」
……その答えを聞いて、嬉しくなった。
ドワンゴと共に歩いてきた道を、豊島は後世に伝える価値のあるものだと思ってくれている。
効率は良くなかったかもしれない。失敗もたくさんあった
けれどそんな試行錯誤の連続を、豊島もきっと、貴重なものと考えてくれている。自分一人で終わらせるのではなく、誰かに伝えたいと、強く思っている。
電王戦は役割を終え、それを引き継いだ叡王戦はドワンゴの手を離れた。電王戦、リアル車将棋、持ち時間が変わるタイトル戦。ハチャメチャなその全てを経験した棋士など、二度と生まれはしないだろう。豊島将之以外には。
その経験は、捨てたくても捨てられない。だって人間は、バージョンを元に戻せないのだから。
変わってしまった自分を否定するのではなく、それを受け入れ、変わり続けるしかないのだから……。
豊島はこれからも試行錯誤を続ける。強くなるメソッドを完成させるまで。
その日まできっと、豊島は変わり続ける。たった一つだけ変わらない素朴な気持ちを抱き続けたまま、変わり続ける。
流れゆく水のように。決して腐ることなく。
(了)