豊島は、羽生世代がやってきたことを、ソフトと共にやったように思える。
同世代の人類との切磋琢磨だけでは足りないと感じた豊島は、強くなっていく過程のソフトといかに向き合うべきか試行錯誤を続けた。
その試行錯誤は時に無謀で、時に進歩的で、豊島自身を深く傷つけもした。
だが羽生世代が50代を迎えても力強く第一線で戦い続ける理由が試行錯誤なのだとしたら、豊島もまた、長く第一線で戦い続けるだろう。
ドワンゴもまた、IT企業が将棋というコンテンツといかに向き合うべきか試行錯誤を続けた。
棋士だけではなく開発者たちに活躍の場を与え、魅力的なソフトが次々に産まれる環境を整備した。
しかしその過程であまりにも大きな傷を負い……将棋から距離を置くことになる。
そして現在、ドワンゴが確立した手法は、より洗練された形で様々な企業に引き継がれている。
だが果たして、その洗練されたスタイルから、何が産まれるだろう?
対局に評価値を表示する。それはいい。
しかしプロですら、それだけでは何もわからない。
ドワンゴが示した人類とAIとの、互いに血を流しながら前に進む試行錯誤こそが豊島将之という不世出の棋士を生み出したのだとしたら?
豊島が活躍を続ける限りは、その独特の将棋観の中に、私たちは電王戦の鼓動を感じることができるかもしれない。
けれど……けれどそれもいつか、消えてしまう。
この関西将棋会館のように。
インタビューを終え、追加の写真撮影も終了すると、豊島は立ち上がる。
私も片付けを終えて立ち上がった。
予定していた質問は全てしたし、豊島も質問には全て答えてくれた。
けれど……何かまだ、聞くべきことがあるような気がしていた。
関西将棋会館が移転する高槻には、豊島の師匠である桐山清澄九段が住んでいる。
野澤亘伸さんの『絆―棋士たち 師弟の物語』によれば、豊島は1999年4月4日に初めて高槻の桐山邸を訪れて入門試験を受けた。
以来、毎月1回、阪急電車と市営バスを乗り継いで師匠の家へ通ったという。それは16歳でプロになるまで7年半、続いた。
だとすれば、高槻には思い入れがあるのでは?